戦争の足跡今に 地雷用の陶器製造、三田に工場跡

地雷の製造を手伝う勤労奉仕の女子生徒たち(大上公一さん提供)

 兵庫県三田市四ツ辻に、古びた門柱だけが残る空き地がある。昭和期に窯業を手掛けた「日本製陶所」の工場跡だ。第2次世界大戦末期には近くの女子生徒たちが動員され、中に爆薬を仕込んで使う陶器製地雷の部品が作られていた。今は陶片の散らばる跡地に草いきれだけが匂い立ち、戦争の記憶を静かに伝える。

 日本製陶所の創業者の孫にあたる陶工、大上公一さん(65)=同市四ツ辻=によると、1939年、祖父の故大上昇さんら丹波焼の陶工数人が合同で設立。出荷に便利な旧国鉄相野駅近くに広い工場用地を見つけ、現在の篠山市今田町から移ってきた。

 当初は、硫酸や硝酸などの薬品を入れる「硫酸瓶」と呼ばれた耐酸性の容器を中心に製造。火薬などの工場でも使われたとみられ、少しでも焼き損じたものは出荷できず、石垣などに転用された。

 戦況が悪化していた44年、大量生産できて長期間の敷設に耐えられ、地雷探知機でも発見が困難な陶器製地雷を旧日本軍が開発。丹波や信楽の窯元で製造が始まり、同製陶所も陸軍監督工場となったという。

 「戦争に求められるまま、作るしかなかったんだろう」と大上さん。職人だけでなく近くの女子生徒も動員され、爆薬を入れて地雷として使う円盤型の容器を製造した。

 終戦後は兵器を生産していたことを隠すため、地雷の製造のために焼いた陶器は地中に埋めた。「ほとぼりが冷めたころに掘り出し、湯たんぽとして北海道などに出荷した」という。

 その後、婿入りした大上さんが3代目として受け継いだが、2015年に廃業。工場は取り壊され、門柱だけが広大な跡地の隅に残った。

 「陶工として、人を殺す道具を作るより、やっぱり暮らしの器を作っていたい。そのためには何より平和でなければいけない」。大上さんは、陶器の破片が散らばる跡地を見つめた。(神谷千晶)

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