死覚悟 でも「生きたい」/制御不能の潜水艦、海底に刺さる

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潜水艦が海底に激突した時の状況を語る長澤さん=10日、野辺地町の自宅で

 油の臭い、息苦しさ、死と隣り合わせの恐怖...。野辺地町の長澤連三郎さん(89)には、72年前の記憶が深く刻まれている。長澤さんは太平洋戦争時、人間魚雷「回天」を積んだ潜水艦の乗組員だった。

  ◇

 敗色が濃くなっていた1945(昭和20)年6月。当時17歳の長澤さんは潜水艦「伊号第363」に搭乗していた。米軍の輸送船を攻撃するため、南方海域を航行していた。

 波がうねる荒天の日の夜、潜水艦は、米軍の機動部隊に遭遇した。「潜行」を指示する赤ランプが点灯し、ディーゼルエンジンがけたたましい音を立てた。乗組員約120人が一斉に動きだし、艦内は一気に緊迫した。機関科でエンジンの駆動などを担当していた長澤さんも機器を懸命に操作した。

 「回天戦用意!」。艦長の指令が出された。

 艦は、5機の人間魚雷「回天」(全長約15メートル、直径約1メートル)を上部に搭載していた。回天は、魚雷に乗り込んだ隊員が操縦しながら敵陣に突っ込む特攻兵器。出撃は、死を意味する。

 「お世話になりました」

 特攻兵5人は、短剣を握り締め、回天に通じる狭い交通筒を上っていった。長澤さんがよく知る10代の青年もいた。

 回天のエンジンが駆動し、艦が小刻みに揺れ始めた。艦長の「回天発進」の命令を待つばかり。あと数分で激しい戦闘が始まる。

 その時だった。「用具納め」。艦長の戦闘体制解除の指令が出された。

 荒天で攻撃が中止されたようだった。「助かった」。乗組員は安堵(あんど)の表情を見せた。

 長澤さんは、幼少期に野辺地港で見た白い制服に憧れ、43(昭和18)年、15歳で海軍に入った。海軍潜水学校で上官に棒で殴られる地獄のような生活を送っても、お国のために命をささげることは名誉なことだと思っていた。しかし、いざ、死と隣り合わせの戦場にいると「生きたい」と切望するようになっていた。

  ◇

 ダダダダッ...

 45年8月、九州・五島列島付近で、海面に浮上していた、長澤さんが乗る伊号第363は、米戦闘機・グラマンの攻撃を受け、艦上にいた乗組員2人が撃たれた。

 艦は急速潜行し、深度を下げたが突然、ドーンと衝撃が走った。制御が利かず、水深100メートルの海底に突き刺さったのだ。

 操縦部隊が必死に艦を浮上させようとしたが状況は変わらない。

 1時間、2時間...と時間が過ぎ、艦内の温度が上昇。長澤さんは、噴き出る汗をぬぐった。濁った空気が漂い、艦内には「ハア、ハア」と乱れた息遣いが響いた。

 「生きたい」「太陽を見たい」と祈っていた長澤さんも「もう駄目だ」と死を覚悟した。

 その時突然、艦が浮上し始めた。奇跡だった。

  ◇

 終戦から2カ月後の45年10月、伊号第363は広島・呉港から長崎・佐世保へ移動中、宮崎県沖で機雷に触れ爆沈。乗組員34人が死んだ。「せっかく戦争を生き抜いたのに」。故郷の野辺地に帰っていた長澤さんは強い衝撃を受けた。そして、悔しがった。

 戦後、町職員となり、家族を持ち、平穏な日々を手に入れることができた。72年たった今、考える。

 敵艦と対峙(たいじ)したあの日、艦長が回天出撃を命じていたら...、潜水艦が海底に突き刺さったままだったら...。毎日のように報じられる朝鮮半島のニュースを見ながら「戦争は二度と起こしてはならない」と心に刻む。

 長澤さんは毎年、秋彼岸に、犠牲となった乗組員の慰霊碑がある広島・呉市を訪れる。今秋も「自分だけ生き残ってすまない。安らかに眠ってください」と語り掛けるつもりだ。

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