土山秀夫さん死去

 被爆地長崎の核兵器廃絶運動の理論的支柱で元長崎大学長の土山秀夫氏が2日午前5時16分、多臓器不全のため長崎市坂本1丁目の長崎大学病院で死去した。92歳。長崎市出身。自宅は長崎市三川町1221の52。近親者のみで密葬を行う。後日、お別れの会を執り行う予定。

 先月30日には日本の被爆者運動をけん引した長崎原爆被災者協議会会長の谷口稜曄(すみてる)さん(享年88)が亡くなっており、被爆地長崎は立て続けに核廃絶・平和運動のリーダーを失うことになった。

 1945年8月9日早朝、長崎医科大(現長崎大医学部)付属医学専門部(医専)の学生だった土山氏は、佐賀県に疎開していた母が危篤との報を受け、列車で長崎を離れた。このため原爆の直爆を免れたが、翌10日、長崎に戻り入市被爆した。当時20歳。大学救護班の下で負傷者の救護・支援活動に従事し、数日後、山里町(現平野町)の自宅付近で同居していた長兄の遺体を確認。長兄の妻とその子2人のうちの1人とみられる遺体もあったが、もう1人の子は見つからなかった。

 専攻は病理学。52年に長崎医科大を卒業後、2年間の米国留学などを経て69年、長崎大医学部教授に就任。医学部長を経て88年10月から4年間、学長を務めた。この時、大学の文教キャンパスの移転を巡り政治家や官僚と対立。大学予算をカットされたため、政治家から圧力があったと記者会見で批判し、物議を醸した。

 90年から2015年まで26年にわたり、長崎市長が8月9日の長崎原爆の日に読み上げる長崎平和宣言の起草委員を務めるなど、市の平和・核廃絶の施策にも深く関わった。2000年には、非政府組織(NGO)核兵器廃絶地球市民長崎集会実行委員会の初代委員長として国際会議「核兵器廃絶-地球市民集会ナガサキ」を開催。10年まで委員長として同会議を計4回主催し、北東アジア非核兵器地帯構想の実現や米国の「核の傘」からの脱却などを提言した。

 長崎大が12年4月に開設した核兵器廃絶研究センター(RECNA)の顧問も務め、被爆地からの情報発信や人材育成に貢献。過去の悲惨な被爆体験を土台にした「情」と、学者としての「理」を備えた「平和活動家」として、草の根レベルの核廃絶運動を追求した。

 2000年、勲二等旭日重光章を受章。10年には長崎市名誉市民に選定されたほか、世界平和アピール七人委員会委員や県九条の会共同代表も務めた。長崎原爆を題材にした山田洋次監督の映画「母と暮(くら)せば」(15年公開)の主人公のモデルの一人にもなった。

© 株式会社長崎新聞社