<独眼竜挑んだ道 生誕450年>(6完)新田開発/家臣動員荒れ地耕す

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江戸時代、盛んに新田開発が行われた仙台市東部。東日本大震災で被災したが、大規模区画に生まれ変わり、営々と耕作が再開されている=若林区荒浜、荒井の両地区

 広々とした平野の美田は米どころ宮城を象徴する原風景の一つ。約400年前はどうだったか。国づくりを志し仙台入りした伊達政宗の眼前には、大いなるフロンティアが広がっていたはずだ。

 関ケ原の合戦(1600年)を経て確定した領地は、現在の宮城県と岩手県南部、福島県浜通り北部に及ぶ。その内実といえば、多くが未開墾地と長い戦乱で荒れた耕作放棄地。そもそも平野の多くは野谷地と呼ばれる低湿地で、中世までの水利技術では稲作が難しかった。

 政宗の胸中が如実に分かる文書が残っている。「領内に荒れ地が多すぎる。これまで手を付けてこなかったせいもあって農民たちは開墾しようとしない」。1605年の検地のころ、側近の茂庭綱元に宛てた書状には率直な焦りといらだちがにじむ。

 同じ書状で政宗はあるアイデアを挙げて意見を求める。「家臣に(給料となる)扶持米(ふちまい)の代わりに荒れ地を与えて開墾させたい。米を支給するより割り増しにすれば財政負担を減らせるのではないか」

 農民だけでなく武士にも開墾を担わせ、耕した土地の一定量を知行地として与えるという。「収量が上がれば自分の収入が増える。数年間は諸役を免除する政策誘導で自力開発を促した」。宮城学院女子大の平川新学長(66)が解説する。

 他藩と比べ、仙台藩には武士が多かった。譜代の家臣に加え、合戦で破った戦国武将らも数多く召し抱えたためだ。幕藩体制は始動したばかりで太平の世を謳歌(おうか)するにはまだ早い。強大な家臣団で軍備を維持しつつ、早急に領国経営を安定させる。藩祖政宗の喫緊の課題だった。

 開墾には家格の上下を問わず、意欲ある家臣を募った。戦国時代なら武士は実力と戦功で領地を獲得できたが、もはやそんな機会はやって来ない。東北大の籠橋俊光准教授(45)は「知行地を持ちたい近世武士の思惑と合致した。領国が広く野谷地が多い仙台藩だからこそ可能だった」と話す。

 開発のエンジンは2代忠宗の治世でもフル回転し、耕地は急拡大する。「仙台62万石」という場合の石高は、幕府が藩に課役を割り当てる際の基準とした表高(おもてだか)のこと。実際の生産力を示す実高(じつだか)は、江戸中期には100万石を突破していたとされる。

 家臣に米や金銭ではなく土地を知行として支給し、土地の支配権も与える制度を「地方(じかた)知行」という。米で支給するのは「蔵米知行」。多くの藩で地方から蔵米に移行し兵農分離が定着していく中、仙台藩では幕末まで政宗以来の地方知行が続いた。

 知行地を在郷に持つ上級家臣は仙台城下と両方に屋敷地を持ち、幕府の参勤交代さながらに在郷と城下を定期的に行き来した。片倉家の白石、岩出山伊達家の岩出山、石川家の角田など各地に小城下町が築かれた。それらの町は後世の宮城県の市町村とほぼ重なり合う。

 大地が耕され、町々が形作られる。藩制時代の遺産の中に今日の暮らしが息づく。(生活文化部 阿曽 恵/写真部 岩野 一英)

         <メモ>仙台藩の開府以後の新田開発高は1684年時点で約33万石。新田開発率は全耕地に占める新田の割合を示す。江戸中期、郡別で最も高い桃生郡は約4万9000石で71%を超えている。その周辺4郡と同様、北上川など河川の流路整理によって野谷地が解消し、飛躍的に開発が進んだ。

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