「調子に乗っていた」―プロから社会人へ異色の経歴持つ苦労人・細山田の今

プロ野球から社会人に舞台を移し、輝きを放っている選手がいる。トヨタ自動車でプレーする細山田武史捕手(31)だ。

現在はトヨタ自動車でプレーする細山田武史【写真:小林靖】

トヨタ自動車で現役継続、細山田の「今」と「夢」

 プロ野球から社会人に舞台を移し、輝きを放っている選手がいる。トヨタ自動車でプレーする細山田武史捕手(31)だ。

 鹿児島城西から進学した早大では、3年時に早実から入学した斎藤佑樹投手(現日本ハム)とバッテリーを組んで「斎藤の女房役」として知られた。その後、2008年のドラフト4位で横浜ベイスターズ(現DeNA)に入団し、2014年からは2シーズン、ソフトバンクに所属した。そして2015年11月にトヨタ自動車硬式野球部への入部が発表され、社会人野球1年目の2016年には都市対抗野球大会でトヨタ自動車の初優勝に貢献。今年10月の「第28回 BFA アジア選手権」(台湾)に出場する侍ジャパン社会人代表にも選出された。

 プロで2度の戦力外を経験した31歳は現在、どのような思いを秘めて野球に打ち込んでいるのか。8月のある日、細山田に話を聞くために愛知県豊田市にあるトヨタ自動車硬式野球部のグラウンドを訪れた。

 大学生との練習試合を見学後、クラブハウスの一室で待っていると「どうもわざわざ遠いところすみません。暑かったでしょ。ずいぶん待ちました?」と、こちらを気遣いながら部屋に入ってきた。

 そんな周囲に気配りを見せる姿からは想像ができないが、細山田は「横浜の時は調子に乗っていました」と言って笑った。当時はコーチに口答えしてケンカになることもあったという。

 早大では3年春に斎藤や福井優也(現広島)、須田幸太(現DeNA)とバッテリーを組み2季連続の優勝に貢献。全日本大学野球選手権優勝、秋のリーグ戦で3季連続優勝、4年秋のリーグ戦でも優勝するなど、早大黄金期を築いた。その後、入団した横浜ベイスターズではルーキーイヤーの2009年にチーム捕手最多となる88試合に出場。2011年もチーム捕手最多の84試合に出場したものの、2012年、2013年シーズンは1軍での出場機会はなく、2013年オフに戦力外通告を受けた。

「1軍で試合に出させていただいて、成績を出していないのに『いける』って思っちゃいました。下積みが大事なのに、(試合に)出ちゃったから。レギュラーは勝ち取っていかなきゃいけない。やっぱり自分で掴まなきゃいけない。自分で獲ったレギュラーは離しません。それが大事。斎藤と一緒にこっちまで誇張されて、大した実力もないのに勘違いしていました」

 自身の態度を改め「頑張らなきゃ」と心を入れ替え始めたのは、3年目の2011年からだという。この年に84試合に出場し「プロでもいけるかな」と手応えを掴み始めたが、翌2012年は1軍での出場機会はなく、オフの契約更改で大幅減額を提示される。当時は、減額か自由契約の二択だったといい、野球協約で定められた減額制限を大幅に超える65%減の年俸600万円(推定)でサイン。会見で「食事は吉野家か松屋にする」と発言し話題になった。

厳しいプロ生活の中で変化した姿勢、トヨタ自動車を選んだ2つの理由

「『頑張ろう。いけるかな』と思った時に、あの吉野家、松屋事件ですよ。あの時は腐りましたね。『どうせ出ないんでしょ。じゃあ今日は酒飲んでもういいわ』って。でも、プロって1回契約したら途中でクビは無いじゃないですか。だから1年間、365日を自分の次の人生のために有効活用しようと思いました。野球以外でもいろんな人と会って、高校野球に指導に行っている友達の話を聞いたり、自己啓発セミナーに行ったり。メンタルトレーニングもしましたね。それからは『試合に出なくても自分ができることを一生懸命やろう。腐らずに自分のできることを常に一生懸命やろう。どこかで誰かが見てくれている』と思えるようになりました」

 結局、この2013年シーズンは怪我の影響もあり2軍戦で6試合の出場に留まり、オフに戦力外通告を受けた。しかし、自分自身と向き合い、様々な人と触れ合った1年間を経験し、前向きな気持ちを持てるようになったという。体力的にも、精神的にもまだできると感じていた細山田はトライアウトを受け、ソフトバンクに育成選手として入団。地元九州の球団ということもあり、心機一転、新天地での活躍を誓った。

「拾っていただいているし、そこで貢献できることはないか、僕にできることを探そうと思いました。若い選手とご飯を食べに行ったりして、いろいろな話もしました。若い選手と野球やれる機会ってないじゃないですか。みんな『まず支配下になろう』ってがつがつ貪欲にやってて。すごく勉強になりました。その頃には、僕も頭の中が大人になったんで(笑)」

 3軍での出場が続いていたが、ソフトバンク2年目の2015年4月に支配下選手として登録。しかし、1軍での出場は12試合に留まり、オフに2度目の戦力外通告を受ける。ソフトバンクでは職員として球団に残る道も提示されたが、同じ頃、早大時代の先輩、トヨタ自動車の佐竹功年投手から「トヨタを優勝させるために来てくれ」と声をかけられ、入社を決意。2015年11月にトヨタ自動車硬式野球部への加入が発表された。

「トヨタを選んだ理由は大きく2つあって、1つは野球をまだ続けたい、社会人野球を経験してないし、社会人で日本一になりたいという気持ちがありました。トヨタは日本一になれるチームでしたから。もう1つは、家族を安心させたいという気持ちですね」

 入社1年目の2016年の都市対抗野球大会では全試合に出場し、チームの都市対抗野球大会初優勝に貢献。1年目での栄冠に「ラッキーでした」と話すが、31歳のベテランは「トヨタも次のキャッチャーが育てば僕はもういらないと思う。誰が抜けても強いチームを作らなきゃいけない」とチーム力の向上に余念がない。そこには将来指導者になりたいという思いもある。

後輩の斎藤を気遣う姿勢「先輩として力になりたいという思いはある」

「僕、指導者になることが夢なんです。トヨタでも、大学でも、どこでも経験できるんだったらしたいです。アマチュア野球に携わった以上は貢献したいですね」

 将来のビジョンを明確に描いているが、まだ現役としてやらなければいけないことがある。代表チームでのプレーもその一つだ。10月に行われる「第28回 BFA アジア選手権」の侍ジャパン社会人代表に選出されており、「日本代表でも金メダルを取りたい」と話す。

 そんな細山田は早大3年の時に日米大学野球選手権大会、4年では世界大学野球選手権大会で日の丸を背負った経験がある。「『大学時代は斎藤が選ばれたから俺も選ばれるでしょ』って感じでした」と笑うが、当時の記憶は鮮明に覚えている。当時、早大の後輩で日本代表でもバッテリーを組んだ斎藤のことは、今でも気にかけているという。

「『終わったらどうするの』という話もしますが、今は現役で頑張ればいいと思います。あいつは見放されているわけじゃないし、目にかけてもらっているんだから、それに感謝して頑張ればいいと思う。時期が来て、助けてあげられることがあれば、先輩として力になりたいという思いはあります」

「調子に乗っていた」というプロ入り後、そして2度の戦力外通告。野球人生の栄光と挫折を味わった細山田が今、大事だと思うのは「人間性」だ。

「『割としっかりやっていてよかったな』って思います。常に一生懸命やっていれば、どこかで誰かが見ている。それは、こういうことだと思います。腐っていたり、適当に野球をやっていたら、今の僕はいないと思います」

 インタビュー終了後、筆者を見送りながら「こういう取材、田舎のばあちゃんが喜ぶんですよ。俺、もうばあちゃんしかいないから」と笑顔を見せた。細山田はすでに両親を亡くしており、父親が亡くなったのは、世界大学野球選手権の時だった。

「あの時も、天国から見られたからラッキーだったなって思います。(会場の)チェコまでなかなか応援に来られないじゃいですか」

 異色の経歴を持つ苦労人は、真っ直ぐで、どこまでも明るかった。社会人野球の舞台で、そして、将来は指導者として、その笑顔を見られる日が楽しみだ。 (篠崎有理枝 / Yurie Shinozaki)

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