ラヴソングの王様・鈴木雅之とサザンと大瀧詠一の関係

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【大人のMusic Calender】

9月22日は、ラッツ&スターのリーダーであり、ソロシンガーとしても30年以上のキャリアを有する、マーチンこと鈴木雅之の誕生日である。61歳となる氏の、男の色気溢れるヴォーカルはますます健在で、作詞や作曲、プロデュースもこなすマルチプレイヤー。これからもラヴソングの王様としての活躍がさらに続いてゆくことだろう。

ラッツ&スターの前身、シャネルズが「ランナウェイ」でレコードデビューを果たしてから既に37年が経つが、実際のキャリアはもっと以前に遡る。シャネルズが結成されたのはそれより5年も前の1975年のことだった。シャネルズのネーミングは、アメリカのオールディーズバンド「シャ・ナ・ナ(Sha na na)」とドゥーワップグループ「ザ・チャンネルズ(The Channels)」に由来するものだった。当初は顔の黒塗りもなく、衣装もTシャツにスカジャンスタイルであったという。1977年には、ヤマハが主催していたアマチュア・バンドコンテスト『EastWest’77』に出場し、決勝大会まで進出。その際にやはり入賞して決勝大会に出場したのが、サザンオールスターズでとカシオペアだった。

『EastWest’77』のステージでサザンオールスターズをはじめとする強豪たちと相対したメンバーがシャネルズを売り込むために考え出したのは、黒人のドゥーワップグループに倣って、顔を黒塗りしてステージに立つということだった。そのヒントになったのは、メンバーの田代まさしがテレビで放送されていた東宝の古い映画『3匹の狸』(1966年)で観た、小沢昭一演ずる黒塗りパンチパーマの詐欺師だったそうだ。シャネルズのトレードマークだった黒塗りに、かつてスクリーンで奔放な演技を見せ、晩年はハーモニカを携えてステージに立った、日本映画界きっての怪優が関与していたというのは、何とも愉快な話である。衣装もそれに合わせて派手なタキシードを安く仕入れ、黒人音楽を意識した振り付け、曲のレパートリーも本格的なドゥーワップに寄せて翌年の『EastWest’78』に臨んだ。

日本では珍しいドゥーワップスタイルのコーラスグループとして活動していた彼らに白羽の矢を立てたのは、ミスターナイアガラこと、大瀧詠一である。1978年に大瀧がプロデュースしたアルバム『LET’S ONDO AGAIN』には、鈴木が“竜ヶ崎宇童”名義ででソロを取った「禁煙音頭」が収録されており、これが実質的な音盤デビューとなった。さらにメンバー全員で参加した「ピンク・レディー」のアーティスト名は、“モンスター”とクレジットされている。いずれもパロディソングながら、鈴木をはじめメンバーのたしかな実力が窺えるレコーディングだった。新宿のライブハウス「ルイード」で定期的に行っていたライヴも次第に評判を高め、1980年のレコードデビューが実現した。グループ名を「RATS & STAR」に改名した年、1983年の7月24日には『ALL NIGHT NIPPON SUPER FES. ’83』に出演し、師と仰ぐ大瀧詠一、アマチュア時代からよきライバルだったサザンオールスターズとの競演を果たした。所沢西武球場で開催された伝説のライヴは、今も語り草となっている。

ちなみに、愛称・マーチンの由来は、中学生の頃に映画『007シリーズ』のボンドカー、アストンマーティンが好きだったことからだという。ラッツ&スターが活動を休止して以降、鈴木のソロシンガーとしての活躍は目覚ましく、いつしか“ラヴソングの王様”、“ラヴソングの帝王”と呼ばれるようになった。現在に至るまで多くのシングルやアルバムがリリースされ、ライヴ活動も頻繁である。2016年には「ガラス越しに消えた夏」からソロデビュー30周年と共に還暦を迎えた。そして第58回日本レコード大賞にて最優秀歌唱賞」を受賞。2017年には第67回芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。さらに大森海苔親善大使に就任している。自身が大田区大森出身であることに加え、母方の祖父が大森の海苔漁師だったということからの選出であった。海苔とラヴソング、どちらも海が似合うのであります。

【著者】鈴木啓之 (すずき・ひろゆき):アーカイヴァー。テレビ番組制作会社を経て、ライター&プロデュース業。主に昭和の音楽、テレビ、映画などについて執筆活動を手がける。著書に『東京レコード散歩』『王様のレコード』『昭和歌謡レコード大全』など。FMおだわら『ラジオ歌謡選抜』(毎週日曜23時~)に出演中。