米軍機墜落“事件”−横浜と沖縄【1】変わらぬ親の愛届け

 横浜市青葉区の米軍機墜落から27日で40年がたつ。米軍機は今も頭上を飛び交い、私たちの日常は常に墜落“事件”の危険にさらされている。横浜と沖縄から変わらぬ現実を見つめる。

    ◇ 海風が心地よい高台に三線の音色が響き、穏やかな語り口のウチナーグチ(沖縄方言)が重なる。

 「辛(つら)いとき、悲しいとき、うちなーんちゅ(沖縄人)を支えたのはくぬ島(この島)の歌三線」「もう二度と、大切な人を失いたくない…」 8月、港の見える丘公園(横浜市中区)。伊波中学校(沖縄県うるま市)の演劇同好会の生徒ら約40人が園内の「愛の母子像」を訪ねた。

 58年前、伊波中近くの宮森小学校(同)に米軍機が墜落し、児童11人を含む18人が犠牲になった。遺族らの証言を基に制作した劇を演じ、悲劇の歴史と向き合う。

 導かれるような母子像訪問だった。40年前、横浜市青葉区(当時緑区)でも米軍機が墜落し、土志田和枝さん=享年(31)=と幼い男児2人の命が奪われた。伊波中の生徒らは横浜で開かれた演劇の全国大会出場を機に訪れた。

 沖縄だけではない。繰り返される米軍機墜落について学び、犠牲となった人々の思いを劇で伝えたいとの思いだった。

 和枝さんに2人の息子をもう一度抱かせてあげたい。母子像にはそんな願いが込められている。母が2人を包み込むように抱く腕。寄り添う子どもたちの小さな手。生徒らはゆっくりと水を掛け、丁寧に手や布でほこりを拭った。

    ■ ■ ■ 和枝さんは全身にやけどを負いながらも3歳と1歳の息子に会いたい一心で痛みに耐え、治療を続けた。しかし、翌日には2人が亡くなっていたと、1年4カ月後に知らされる。墜落から4年4カ月後、2人の子を思いながら息を引き取った。継承活動を続ける男性が母子像前で教えてくれた。

 沖縄で生徒らは宮森小の墜落で息子を失った91歳の女性を2度訪ねた。「お利口だったんだよ。勉強ができてね。運動も得意だったの」。元気だったころを思い出し、語ってくれた。

 「(和枝さんは)子どもの分まで生きようと、(沖縄の遺族女性と)同じ思いで生きてきたのかなと感じた」。同中2年の岸本星(てぃあら)さん(13)が話す。母親の愛は変わらない。2人の母親の姿を通して横浜と沖縄が重なった。

 横浜では、日吉台中学校(横浜市港北区)の演劇部が墜落をテーマに朗読劇に挑戦する。同じ志を持つ彼らを前に、伊波中の生徒らが劇中歌を披露した。

 わが子を優しくあやすように体を揺する。空を見上げて、亡くなったわが子を捜す−。岸本さんは子どもを思う母親の姿を踊る。2人の母親と出会い、わが子を亡くした親の気持ちを届けたいとの願いを込めた。

 「ティンヌ ムリブシニ ウヤヌクヌウムゐ イチムイチマディン トゥドゥチタボリ(天の群星に 親のこの思い いつもいつまでも 届いてほしい)」 最後はウチナーグチで歌う。

 「沖縄の言葉だから分からないかもしれない。でも、思いはしっかりと届けたい」遺族の思い劇に込め 「あれは事故だったのですか? それとも、事件だったのですか?」 波音と三線の音色とともに、静かな問い掛けが県立青少年センター(横浜市西区)のホールに響く。

 8月18日。中学校演劇の全国大会の舞台に、伊波中学校(沖縄県うるま市)の生徒たちが立った。

 小学校に米軍機が墜落し、18人の命が奪われた58年前を伝える物語。伊波中近くの宮森小学校(同)で起きた実話がモチーフだ。男の子が日常の風景からその事実を学び、わが事として捉えていく姿を描いた。

 放課後、男の子は友達と話す中、校庭片隅の地蔵がふと気になった。由来を尋ねると、祖父が少しずつ「あの日」を語り始める。

 「私は無事だったのに、何であの子たちは…。何で代わってあげられなかったの」。教室が一瞬で真っ赤な火に包まれる中、教え子たちを救えなかった自責を語る教師。「この子は、私の子じゃない!」。変わり果てたわが子を前に絶叫する家族。体験者の証言が入れ替わり回想される。

 祖父も通った学校で起きた墜落。多くの友達を失った祖父。追悼のため建てられた地蔵−。男の子は学び、誓う。「これからは、墜落事件のことを知らない友達にも僕が伝えていくよ!」    ■ ■ ■ 原作は8年前、顧問の前田美幸さん(32)が中学・高校の同級生らと手掛けた同名の作品だ。

 タイトルは「フクギの雫〜忘れたくても忘れられない、忘れてはいけない〜」。貧しかった当時、宮森小では子どもたちの楽しみだった「ミルク給食」の時間に米軍機が墜落した。機体の破片がフクギの木に突き刺さり、白い樹液が流れた。ミルク、樹液、そして多くの人の涙。それらを掛け合わせ、「フクギの雫」と名付けた。

 前田さんの母校の沖縄国際大学(同県宜野湾市)で2004年、米軍ヘリが墜落し炎上した。危険と隣り合わせに暮らす沖縄の現実を劇を通じて訴えてきた。

 「沖縄ではジェット機やヘリが飛び交う『非日常』の音が、『日常』になっている。整備不良が原因で起きた宮森小の墜落は、事故ではなく事件。一人でも多くの人に考えてほしくて、あえて冒頭で問い掛けました」 当時、遺族への聞き取りを基に手掛けた作品だ。子を亡くした親や多くの人が、悲しみや苦しみを背負い生きていると学んだ。

 「忘れたくても忘れられない、忘れてはいけない思いがある。沖縄と同じように基地がある神奈川で、その思いを伝えることは大きな意味がある」    ■ ■ ■ 前田さんの思いは生徒たちに引き継がれている。

 「1度焼かれた子を、また、焼くのか…?」 劇中、もんぺ姿で椅子に腰掛け、古謝(こじゃ)未旺李(みおり)さん(14)が語る。全身黒焦げになった息子を火葬することができず、土葬した宮森小の遺族の言葉だ。

 「何ー? パイロットは、パラシュートで逃げて、無傷だった…? 自分の命は守って、うちなーんちゅ(沖縄人)の命は、どうでもいいのかー…?」 右手を思い切り膝に打ち付け、顔をゆがめ、前のめりに叫ぶ。観客のすすり泣く声が会場に響いた。

 息子を亡くした91歳の女性から沖縄で話を聞き、古謝さんには伝えたいことができた。もう二度と大切な人が奪われる“事件”があってはならない−。その一心で演じた。

 だから終演後、拍手と歓声に包まれたあいさつの場で、涙をこらえ切れなかった。沖縄と神奈川で背負った思いが、多くの人に届いたことがうれしかった。「一人でも多くの人に…。こんなに多くの人に伝えられて、良かったです」 観客から寄せられた激励のメッセージの数々。前田さんが一つ一つ読み上げる。「もう一度見たいけど、演じるのはつらいかな」。心動かされ、おもんばかってくれていた。

 古謝さんは晴れやかな笑顔で答えた。「つらいと言えば、つらいです。でも、これからももっと多くの人たちに、忘れてはいけない思いを伝えていきたい」 ◆横浜米軍機墜落事故 1977年9月27日、米海軍厚木基地を離陸した偵察機が横浜市青葉区(当時緑区)の住宅地に墜落炎上し、9人が死傷した。土志田和枝さんの長男裕一郎ちゃん=当時(3)=と次男康弘ちゃん=同(1)=が死亡。重傷の和枝さんもその後、31歳で亡くなった。乗員2人は機外に脱出して無事だった。整備時の部品の装着不備が原因とされた。

 ◆宮森小学校米軍機墜落事故 1959年6月30日、米軍嘉手納基地を飛び立った戦闘機が沖縄県うるま市(当時石川市)の住宅地に墜落、近くの宮森小学校に衝突、炎上した。児童11人と地域住民6人の計17人が死亡、200人以上が重軽傷を負った。その後、当時の児童1人も後遺症で亡くなった。乗員は脱出して無事だった。整備不良が原因とされた。

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