赤間女学院、最後の同窓会=「必ずまた会いましょう」=卒業生や教師ら約30人誓う

参加した皆さんで記念撮影

 「元気でね、また会えるからね」――「ピオネイロ教育センター」(Centro Educacional Pioneiro、赤間みちえ財団運営)の前身、「赤間洋裁学校」や「赤間女学院」時代の全校卒業生を対象とした『最後の同窓会』が23日、聖市南部の現ピオネイロ校で行なわれた。当時の生徒約30人が集まり昔話に花を咲かせた。

 故赤間重次(じゅうじ)・みちへ夫妻が1933年に設立した「裁縫教授所」が端緒となり、幼稚部から高等部までの一貫教育で定評の高いピオネイロ校に発展した。
 毎年開催してきた同窓会だが、同窓会主催者の水上真由美さん(89、二世)は、「高齢化によりこれ以上の継続は難しい。今回予約したのは37人。親族の病気や葬式などでキャンセルが出た。80歳以上の人ばかりですしね」と話した。
 昼12時半頃、松本いくさん(89、福島県)の開会挨拶、水上さんにが乾杯の音頭をとり、あっという間に思い出話の場になった。
 水上さんは生まれ故郷の第3アリアンサから1945年に出聖。「炊事係で2年間、皆のご飯を炊きながら裁縫を習いました」と思い出す。
 公の場での枢軸国言語使用が禁止された戦時中、生徒は分校に集まって隠れて日語学習を続けた。監視の目をかいくぐるため、学院受付の本棚の後ろに非常ベルが取り付けてあったそう。「視学官が来たら鳴らされるの。生徒たちはすぐに裁縫道具を持って裁縫室に走った」と語った。
 みちへ先生は教室で、生徒と一緒に終戦の玉音放送を聞いた。水上さんは「皆泣いていたせいで教室の窓が曇った。赤間先生が『窓を開けて、皆で泣きましょう』と言ったので、その通りにして、皆で大声を出して泣いたわ」と懐かしそうに目を細めた。
 「皆に会うと18歳の頃に戻ったような気持ちになる」と笑顔を浮かべる松本さん。「みちへさんは優しい母のような人だった。試験勉強をしているとき『勉強には甘いものが良い』とおはぎを作ってくれた」とも。
 36~46年に同学院で裁縫を教えていた山崎澄子さん(すみこ、93、二世)は、元教え子の藤田愛子さん(88、兵庫)と談笑。当日も、当時の旧姓「西先生」で皆に呼ばれていた。「戦争のときはごたごたしていて大変だった。塩や砂糖が政府に統制されたときは、生徒が列を作って1人1キロずつもらいに行ったのよ。でも生徒とテニスをして楽しんだり、良いこともたくさんあった」と笑った。
 山崎さんが「当時テニスが一番上手な生徒だった」と紹介した藤田さんは14歳で入学し、学院に6年間通った。「教師になるつもりで裁縫を習っていた。赤間に入って、西先生のような素晴らしい先生方に出会えた」と微笑んだ。
 最後に水上さんの呼びかけで「サンパウロ女学院歌」「ふるさと」などを合唱し解散。参加者らは「元気でね」「また会えるよ」と互いに語りかけながら別れを告げ、会場を後にした。

 

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 赤間女学院の同窓会で、水上真由美さんは「裁縫も日本語の読み書きもできない日本移民の女子がいるのを見て、夫妻は『これではいけない』と学校を作った」と学校創立の背景を紹介。創立者である赤間みちえさんへの敬意は、今も篤い。当日集める予定だった昼食代は、石塚克興理事長のはからいで学校が負担した。代わりに、昼食代として集めたお金は、療養中の赤間みちへさんの妹・鈴木ともへさんに寄付された。

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