【新日鉄住金と中国宝武鋼鉄 友好協力40周年(上)】協力関係、日新や武鋼に拡大

 新日鉄住金と中国宝武鋼鉄集団の友好協力が、この11月に40周年を迎えた。1977年11月に当時の新日本製鉄・稲山嘉寛会長が訪中した際、李先念副首相(のち国家主席)に製鉄所建設への協力を要請され始まった両社の関係。合弁事業の設立やそれぞれの再編を経て、結び付きはより多岐に広がっている。(黒澤 広之)

 新日鉄住金と宝武の関係には「プレヒストリー」がある。日中共同声明で国交が回復した72年、旧新日鉄へ武漢鋼鉄の近代化プロジェクトとして熱延ミルと電磁鋼板ラインの引き合いが寄せられ、74年に受注が決定。新日鉄の技術やエンジニアリング力が評価され、その実績が77年の李副首相による上海宝山製鉄所に対する協力要請につながる。

 上海が建設地に選ばれたのは、最も経済発展していた需要立地であり、インフラや優秀な人材の確保にも恵まれていたからとされる。78年にはトウ小平副首相が来日しモデルとなる君津製鉄所を視察。同年12月23日に起工式が行われた。

 ブラジルのウジミナスや韓国・ポスコなど数多くの海外技術協力を行っていた新日鉄にとっても、上海宝山プロジェクトは過去にない大規模なものだった。製鉄プラントや機材は新日鉄のエンジニアリング事業本部はじめ三菱重工業、IHI、日立造船、三井造船、神戸製鋼所、日本車輌製造などが納入。これら設備材料だけで52万トン分に上った。

 第一期工事の大半では日本を代表するプラントメーカー製が採用され、継目無鋼管工場のみが西ドイツのマンネスマン・デマーグ製だった。

 当時、現地で宝山プロジェクトに庶務で携わった朝陽貿易(本社・東京都千代田区)の阿部正行社長は「大変な大所帯でしたが、新日鉄のプロジェクトだけあって運営はしっかりしたものでした。日本食やカレーといった食料が定期的に持ち込まれ、駐在環境としては恵まれていたでしょうね」と振り返る。

 ただプロジェクトの進ちょくは紆余曲折があった。中国の経済調整政策で宝鋼計画も見直しが入り、ファイナンスの問題もあって炉内容積4千立方メートルの第1高炉へ火入れされたのは85年9月。新日鉄の君津と大分製鉄所をモデルとした宝山鋼鉄は年産能力300万トンで「船出」した。

 その宝鋼は中国鉄鋼業の先導役となり、昨年にはプレヒストリーの主役だった武鋼と統合。年産6千万トンを超える中国宝武鋼鉄集団となった。一方、宝鋼とステンレス事業で合弁事業を設立した日新製鋼は今年から新日鉄住金グループ入りした。両社の歴史的な縁は宿命的な広がりを見せている。

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