戦前・戦後の2人の知性派都市計画家~その苦悩と実践~ 関東大震災と戦災からの復興

直木倫太郎は俳人としても才能を発揮した(出典:Wikipedia)

1世紀前の土木技師の訴え~直木倫太郎は叫ぶ

工学博士・直木倫太郎著「技術生活より」(東京堂)は、土木学会が選定した「戦前土木名著100著」の中でも異色の書である。奥付によると同書は大正7年(1918)3月3日発行とあり、約100年前の刊行である。この「激烈」な「名著」は、土木技師としての日ごろの鬱々(うつうつ)たる苦悩や怒りを歯に衣を着せずにぶちまけた私憤の思索集である。なぜ技術専門書とはおよそ内容を異にする「異端の書」が戦前の名著100著に選定されたのだろうか。同書の背後に一貫して流れる氏の祈りのような技術者倫理を感じとらなければならないが、まずは著者・直木倫太郎(1876~1943)の人生を略記する。

彼は兵庫県加東郡の旧家に生まれた。少年の頃から学業だけでなく文才にも秀でており、旧制高校時代から句作を始めた。東京帝大土木工学科に入学すると、俳句を新聞に投稿し入選することもあった。俳名を燕洋(えんよう)と号し俳諧「ホトトギス」派の雄である正岡子規の門人となって、夏目漱石や高浜虚子らとも交遊し句作に励んだ。氏の作風は、俳句の「写生」を重視した同派の俳人の中では異色であり、自己の心情や社会問題を読み込んだものも少なくない。

学業も怠ることなく大学を首席で卒業し、明治32年(1899)東京市(現東京都)に入り東京築港調査事務所工務課長などを務める。港湾と都市計画を専門とした。欧米への留学後、「東京築港に関する意見書」を尾崎行雄東京市長に提出する。内務省技師に転じ同時に東京帝大土木工学科の非常勤講師として上下水道を講じた。次いで大阪市に赴任し港湾部長となる。「技術生活よ」を世に問うたのがこの頃である。

大正12年(1923)関東大震災が発生した。復旧事業のため後藤新平復興院総裁に招かれて帝都復興院技監に就任し、翌年官制改革により内務省の外局である復興局長官(局長相当)・技監兼務となり震災復興事業に尽力した。都市計画家として人生観を変える大災害であった。40歳代後半である。その後大林組に技師長として入社した。還暦を前に、直木は満州に渡って国務院国道局長に就任した。

「雲凍る この国人と なり終へむ」。就任の際の俳句である。満州国の土木界と科学技術界の第一人者として先駆的事業と研究に尽力した。終生の大事業であった大東港建設工事の視察中、病を得て急逝した。享年67歳。

さて、「技術生活より」である。目次を繰ってみる。序文、疑問、気休め、囚われ、退屈、犠牲、技術家とは何ぞや・・・。一般技術書からかけ離れていることはこれだけでも分かる。「序文」の一部を引用しよう(現代語表記)。

「僕の思索は今『技術』と『人』との交渉に向かって進められつつある。要は『技術』あっての『人』か、『人』あっての『技術』か。『技術』重きか、『人』重きか。結句『技術』とは『人格』を離れて独立的に存在し能(あた)うるものか否か。先ずこの点に理解を立てて見たいとの思いがある。(中略)。要は『人』あっての『技術』、『人格』あっての『事業』。その『人格』の向上を計らずして独り『技術』の威力の大ならんと欲するは難(かた)しとの趣意を成るたけ手強く書下ろして見たいと思う」。

本文中で、(1)土木技術者がいかに幅広い見識(氏の言う常識)を持っていないか、持つ努力をしないか、(2)自己の存在意義や自らの主張を国民に伝える能力を磨こうとしないか、を繰り返し訴える。「考えねばならぬ。悶(もだ)えねばならぬ。叫ばねばならぬ。徒(いたず)らに黙々と卑怯なる無自覚・不徹底の日を送ってはならぬ。濫(みだ)りに唯々として姑息(こそく)なる間に合わせの生涯を暮らしてならぬ。我々(技術家)には余りに尊き人生(ライフ)があるではないか」

氏の訴えは「過去」のものと一蹴するわけにはいかない。むしろその真摯な苦悩は今も土木技術者の胸に突き刺さるであろう。

早稲田大学教授時代の石川栄耀(桐野江節雄画伯作、提供:石川家)

都市計画家・石川栄耀の先駆的実践

日本の都市計画を考えるとき、戦前から戦後にかけて活躍した都市計画の先駆者(パイオニア)の一人、石川栄耀(えいよう)の理念と実践を抜きにして考えられない。工学博士石川の卓越した発想や美意識を無視して現代の都市計画は論じられない。石川の人と思想を考える。

「社会に対する愛情、これを都市計画と言う」。こう高らかに宣言する土木技師石川栄耀の高邁な精神と行動力に私は惹きつけられる。近現代日本の都市計画は石川から始まる。石川以前に日本には近代的かつ民主的な価値観を持つ実践的都市計画家は存在しなかった。

石川が決定的な影響を受けたのが、20世紀初頭のイギリスを出発点とする「田園都市(Garden City)」構想であった。生命・環境を優先した緑と水辺の豊かな都市づくりである。人間性尊重と景観美に配慮した都市計画である。この構想を理解しいち早く導入した日本人技師の一人が石川である。彼は、都市計画家がとかく無視しがちな都市における盛り場、商店街、屋外広告の重要性・必要性も強調した。「心のぬくもりのある都市づくり」。それまでにない斬新で柔軟な発想である。

石川は明治26年(1893)9月7日、今日の山形県天童市の没落士族根岸家の次男として生まれた。6歳で母方の実家石川家の養子となる。義父は日本鉄道会社(JRの前身)の幹部技術者だった。埼玉県立浦和中学(旧制、以下同じ)に進学するが、父親の転勤に伴い岩手県立盛岡中学に転校した。第二高等学校 (現東北大学)に進学し卒業後、東京帝大工学部土木工学科に入学する。美しい橋・街並み・公園・水辺の空間を造りたいとの思いからだった。土木工学に技術・機能と共に景観美を求めた。

大正7年(1918)7月大学を卒業し、アメリカ法人の貿易会社建築部などに勤務した後、大学同期・青木楠の薦めで内務省に入省し都市計画技師の第1期生となる。同9年(1920)都市計画名古屋地方委員会(のち都市計画愛知地方委員会)に赴任する。彼は名古屋市の都市計画草創期にあって計画原案の作成に携わりその基礎を築いた。上司は事務官僚で「山林都市」の提唱者黒谷了太郎だった。黒谷はロンドン郊外の田園都市レッチワースの設計者レイモンド・アンウィンと親交があった。石川は都市計画家アンウィンの生命優先の思想に傾倒する。

結婚後欧米に出張し、イギリス、フランス、オランダ、アメリカなどを歴訪した。大正13年(1924)アムステルダムで開催された「国際住宅および都市計画会議」に日本代表として出席した。アンウィンに面会を求め自作の都市計画(海岸線をコンビナート化した案)を示したが、「君の計画にはLife(生命)が感じられない」と酷評された。雷に打たれたような衝撃の一言であった。帰国後、主任技師になった彼は、名古屋市郊外の区画整理を精力的に手掛けて宅地開発や基盤整備を成し遂げた。その手腕を存分に発揮したといえる。

戦中・戦後の苦闘

昭和8年(1933)9月石川は都市計画東京地方委員会に転じ、第一技術掛主任技師に着任する。同13年(1938)興亜院(対中国政策の政府機関)の嘱託となり上海の都市計画立案作業に取り組んだ。その後、大東京地区計画を発表する。同16年(1941)には「防空日本の構成」「日本国土計画論」「都市計画及国土計画」を、翌年には「国土計画-生活圏の設計」を刊行する。一連の構想は後に首都圏整備計画に盛り込まれていく。日本は太平洋戦争突入という最悪の時局を迎えた。

昭和18年(1943)東京都発足に伴い東京都計画局職員となる。同時に東京帝大、早大の非常勤講師も務める。東京美術学校(現東京芸大)では都市景観を教え、東京高等師範学校(東京教育大学を経て現筑波大学)や工業専門学校で技術文明論を講演した。同年道路課長に就任し、同19年(1944)都市計画課長を兼務して戦時下の東京の戦災復興都市計画に着手する。隣保地区計画を作成と同時に『皇国都市の建設』を発表し、大都市疎散論を展開する。有事に際し都市人口を周辺地域に移転させる計画である。

昭和20年(1945)敗戦。戦災復興院の発足時、総裁小林一三から工務課長就任の打診を受けるが辞退し、東京の復興に全力をあげる。翌年東京の土地区画整理事業区域を計画決定し、帝都復興計画概要案を立案する。「都市復興の原理と実際」を発表した。敗戦後廃墟となり財政難にあえぐという最悪の条件下で、東京都復興の最高責任者となり寝食を忘れて計画の実現を推進した。

GHQ監視の中での戦災地復興には無理難題が山積したが、国や東京都には解決のための財源がなかった。新宿・角筈(つのはず)を区画整理して広場を生み出し、大劇場、映画館、演芸場の立ち並ぶ娯楽センターに再生する計画を地元住民とともに作成した。彼は町名を「歌舞伎町」と命名した。昭和23年(1948)東京都建設局長に就任する。同24年(1949)、日本都市計画学会が設立されたが、彼は発足首唱者の一人で副会長に就任した。没後その業績を讃えて同学会に「石川賞」が設けられた。

昭和27年(1952)復興区画整理第一地区に指定していた東京・麻布十番地区の土地区画整理がまとまり、現代的「店街広場」が生み出された。彼は全国150を越える地方自治体の都市計画に直接または助言者として携わった。東京都心、名古屋市、那覇市、盛岡市、金沢市、四日市市、高知市、栃木市などの「街づくり」には石川構想が生かされている。昭和30年(1955)9月26日急逝した。享年62歳。

参考文献:拙書「評伝 石川栄耀」(鹿島出版会)、土木学会関連文献、筑波大学附属図書館文献

(つづく)

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