長崎橘湾岸スーパーマラニック完踏記 276㎞ 壮絶な自己との闘い スタッフらの励ましを力に

 長崎県南5市にまたがる総距離276キロを踏破する「長崎橘湾岸スーパーマラニック」を人づてに知ったのはつい数年前。高血圧予防で走り始めたばかりだった私がよもや挑戦することになるとは…。今月2~4日、全国から集まった157人が走ったり、歩いたり、食事や仮眠もしながら制限時間内にゴールを目指した。私は一睡もせず50時間でなんとか完踏したが、その過酷さは想像を絶していた。(長崎新聞社報道部デスク・後藤敦、45歳)

 2日午後1時、長崎水辺の森公園をスタート。日差しが強く、かなり汗をかくが体調はいい。すぐ稲佐山頂上のチェックポイント(CP)に到着。全選手はカードを携行し、途中複数あるCPでパンチを入れていく。電車通りまで下り、滑石を経てあぐりの丘へ。式見から海岸を南下するうちに、角力灘(すもうなだ)に沈む夕日が見えた。先は長いので、上り坂は歩き、平地と下り坂を走るスタイルを貫く。女神大橋に着いた時は既に暗かった。ここはエイドステーションの一つ。うどんが振る舞われた。

 ■転倒

 三和を過ぎると交通量も減り寂しい。居合わせた選手としゃべりながら進む。真っ暗で軍艦島は見えない。野母漁港では段差に気付かず、つっかかって派手に転んだ。疲れてくると脚が上がらなくなる。普段なら気にしない歩道の段差の多さに閉口した。

 権現山と80キロ地点の樺島灯台の急坂をそれぞれ乗り切り、樺島漁港エイドでカレーや刺し身を味わう。うまい。調理や補給用飲料の用意をするのはボランティアスタッフたちだ。彼らもエイドからエイドへ車で移動し、先回りして選手を温かく出迎えてくれる。

 橘湾沿いを北上する。街灯がほとんどなく、ヘッドライトが頼りだが、この日は月明かりが足元を照らしていた。しかし起伏の激しい道は、月をめでる余裕など与えてくれはしない。

 115キロ地点の茂木に到着。ここではあらかじめ着替えや補給品を預けておける。入浴や仮眠をする選手も多い。超長距離走では擦れが致命傷になりかねず、私も脇や足の指にワセリンを塗り直す。角煮麺をいただき、柔軟体操をする間に辺りが明るくなった。

 日見公園は豚汁、飯盛峠はおはぎ、とエイド食を楽しみに前へ。飯盛のジャガ芋畑道を通る間、北海道の美瑛にいると錯覚した。疲れて思考力が鈍るのもこれなら悪くない。「にーちゃん、かっこよかよ」。農作業中のお年寄りたちの声援がまた力になる。

 唐比(からこ)から千々石まで愛野展望台経由ではなく、崖下の海岸を進む。太陽を遮る樹木もない約3キロが鬼門だ。平たんだが、もうろうとして歩くのがやっと。ずっと年上の女性選手が追い抜いていく。「暑いから早く抜けださないとね」。おっしゃる通りだが、体が動かない。

 3日夕、ようやく173キロ地点の小浜中継所に着いた。午後8時まで再スタートできない決まりなので、入浴と着替え、食事を済ませ、仮眠しようとしたが、脚が火照って眠れない。とにかく目をつぶり、じっと体を休ませた。

 ■寒風

 再スタート直前、立ちくらみがした。脚に力が入らない。不安に押しつぶされそうになりながらゆっくり走っていると、沿道に会社の同僚2人がいた。ぐっとテンションが上がる。立ち止まって言葉を交わし、差し入れの栄養ゼリーを受け取る。それから原城跡まで体がよく動いた。

 そこからは寒風との戦いだった。防寒着を着込んでも疲労でスピードを出せず、体が冷え、さらに動きが鈍る悪循環。足の指もしびれてきた。それでもコンビニに立ち寄りホットドリンクを胃に注入すると、よみがえった。バス停で防寒シートにくるまり、眠り込む選手もいた。

 230キロ地点の島原城を過ぎたところで日の出。息も絶え絶え眉山裏の急登を抜け、一気に駆け降りる。延々と続く坂。酷使してきた膝が悲鳴を上げる。「くそっ、いつ終わるんだ」。独り毒づく。

 国道57号に出て、仁田峠まで13キロひたすら登る。次は睡魔に襲われた。歩道がない部分が長く、ふらつけば通行車両に接触しかねない。危うい選手はスタッフ車に強制収容される。眠気を覚まそうと歌ったり、顔が赤くなる人生の失敗を思い出したりして耐えた。

 雲仙温泉を越せば、後は小浜まで下るだけ。膝はガクガク、太ももはパンパン。だが不思議と体は軽い。私たちの後に小浜を出発した100キロ部門の選手たちが抜き去りながら「ナイスラン」「よく頑張った」とたたえてくれた。

 そしてゴール。達成感以上に「やっと布団で眠れる」という解放感が強かった。靴を脱ぐと、爪があらぬ方向に曲がり、足首が太く腫れていた。翌朝は、つえをつくお年寄りより歩くのが遅かった。

 ■53%

 各CPの関門時間に間に合わなかったり、故障でリタイアしたりする選手も多く、完踏率は53%だった。4回目にして初完踏した熊本市の大木通さん(69)は「人生の大勝負に勝てた。みんなが応援してくれたから」と声を弾ませた。

 私も途中「無理かも」と弱音を吐くたび、ボランティアスタッフらの励ましに支えられた。痛めた脚を引きずりながら進む“戦友”たちに触発された。「自分との闘い」だが孤独は感じず、途中で歩みを止める理由が思い付かなかった。練習を積み、できる限りの努力はしたつもりだが、それだけではたどり着けなかっただろう。

 ◎長崎橘湾岸スーパーマラニック

 マラニックはマラソンとピクニックを合わせた造語。ウルトラマラソンと違って警察の交通規制がなく、選手は歩行者扱いのため信号など交通ルールを順守する。
 
 W(276キロ)、L(173キロ)、P(103キロ)、M(80キロ)、S(55キロ)の5部門のいずれかを毎年2回開催している。
 
 このうちWは2年おきに開き、LとPの完踏経験が出場条件。選手の走力に応じてスタート時刻を段階的に設定し、Wの制限時間は55~41時間。
 
 途中のCPなどを関門時間以内に通過しなければ失格となる。W参加費は2万7千円。新たにE部門(217キロ)を設け現在、専用ホームページとポータルサイト「ランネット」で出場者募集中。

◎インタビュー・事務局 阿部明彦さん(65)

 「非日常にこそ楽しみがある」 食こだわり、全国から参加者

 私も40代になって走り始めた。長崎くんちの根曳(ねびき)になるための体力づくりがきっかけだった。フルマラソンを3時間半で走るようになったころ、100キロ超のウルトラマラソンに挑んだ。結果は酷暑でリタイア。完走率が低くてもゴールにたどり着く人たちの姿に感動した。

 12年前、他県の超長距離マラニックに出たが、参加費が高い割に食事が良くなかった。長崎が数少ないフルマラソンのない県だったこともあり、ラン仲間で企画することにした。2006年のプレ大会には20人が出場。私は軽ライトバンに機材を詰め込んで選手を追い掛けた。

 ほそぼそと続けていたら、4年前から出場者が一気に増えた。完踏者が輪を広げ、スタッフにも回ってくれた。語源の一つ、ピクニックは郊外で楽しく食事をする要素が大事。だから炊き出しをしたり、地元の刺し身を出したりとエイド食にはこだわった。

 ランナーのニーズを聞いて柔軟に対応し、自由な発想で運営したいから、行政の補助金は一切受けていない。休憩先の公共施設の使用料も支払っている。これまで岩手を除く46都道府県から参加があった。応援の家族を合わせればかなりの人数になる。まちおこしをする気はないが、結果的に消費や宿泊などを通じ地域に貢献できている。

 素人も出場できる超長距離マラニックとしては全国でも希少な存在となった。ゴールラインを越えられるか否かで天国と地獄が分かれる。スタッフもなんとか完踏させたい気持ちに自然となる。これほどシンプルに人間模様を見られる“劇場”はそうない。昼夜通して276キロ走るなんて世間には非常識と見られるかもしれないが、非日常にこそ楽しみはある。

小浜中継所にたどり着いた記者(右)=雲仙市内(ボランティアスタッフの岩永広貴さん撮影)

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