文豪漱石の博士号辞退と反権威主義 東京帝大卒もエリート然を嫌う

権威を嫌った夏目漱石(出典:Wikimedia Commons)

博士号辞退は<主義>の問題

明治期以降の日本の作家のうち、一人挙げよと言われれば、私は躊躇することなく夏目漱石(1867~1916)を挙げる。私の敬愛する文豪漱石の小気味よい「反権力主義」「反権威主義」について考えたいと思う。

戦前、東京帝国大学(現・東京大学)の学生たちは「末は博士か大臣か」とおだてられ、またうぬぼれて、卒業後はエリートとして国家権力のため尽力するよう求められた。ゆがんだ出世栄達・達成の象徴が、政府から授けられる博士号であった。

漱石の学問や文学・芸術に対する姿勢を如実に示した「事件」がある。博士号辞退問題である。この「事件」を調べるにつれ、私の漱石への敬愛の念は深まりこそすれ、冷めることなどまったくないのである。

明治44年(1911)2月、<博士号嫌い>の漱石に、よりによって文学博士の学位を授与するとの通達が文部省より届けられた。漱石は明治43年(1910)の夏、胃かいようの療養のため逗留していた伊豆・修善寺温泉で大量の吐血をし一時人事不省に陥った。命をとり留めて同年10月に帰京し、そのまま東京・内幸町の長与胃腸病院に入院していた。心も体も疲れ果てていた時に、まるで神経を逆なでするかのように文学博士授与の通達が突然舞い込んだのである。(以下「夏目漱石」著・小宮豊隆、「漱石とあたたかな科学」同・小山慶太―を参考にし、一部引用する)。

病身の漱石は、事前に本人の意思も確認せずに、強引に学位授与を決めてしまった文部省の一方的なやり方に激怒した。漱石は博士号を拒否すると怒りを込めて文部省当局に伝えた。明治44年(1911)2月21日、文部省の福原鐐二郎(りょうじろう)専門学務局長に宛て、病床から書面で次のように伝えた。

「拝啓、昨20日夜10時頃、私留守宅へ(私は目下表記の処に入院中)本日午前10時頃学位を授与するから出頭しろという御通知が参ったそうであります。留守宅のものは今朝電話で主人は病気で出頭しかねる旨を御答えして置いたと申して参りました。学位授与と申すと、2、3日前の新聞で承知した通り、博士会に推薦されたに就(つい)て、右博士の称号を小生に授与になる事かと存じます。然(しか)る処、小生は今日までただの夏目なにがしとして世を渡って参りましたし、是から先も矢張りただの夏目なにがしで暮らしたい希望を持っております。従って私は博士の学位を頂きたくないのであります。この際御迷惑を掛けたり御面倒を願ったりするのは不本意でありますが、右の次第故(ゆえ)学位授与の儀は御辞退致したいと思います。宜しく御取計を願います。敬具」

文中の「ただの夏目なにがしで暮らしたい希望を持っております」には文学者・漱石の権力におもねらない反骨精神が高らかに宣誓されている。御上の権威が学問や芸術に介入することを嫌った漱石の近代精神が見てとれる。学位授与を意味する「学位記」は、その後文部省と漱石の間で行ったり来たりを繰り返した。漱石から学位制度を批判されても、文部省はあくまでも漱石に学位を押しつけようとした。福原局長が再び手紙で「なんと言おうと、貴下は文学博士の学位を有せる者とみなす」と伝えてきた。結局、話は平行線のままうやむやとなり、漱石は「ただの夏目なにがし」で暮らして行くのである。「夏目漱石」(小宮豊隆)は記している。

「漱石が博士を辞退し、それについて文部省と漱石との間に暫くの間ごたごたが続いたことは、世間の耳目を聳動(しょうどう)し、賛否さまざまの批評を惹き起した。ある者はこれを痛快だといって褒め、ある者はこれを神経質に過ぎると言って嗤(わら)った。しかしこれは恐らく漱石にとって、意外なことだったに違いない。既に漱石自身『徹頭徹尾主義の問題である』と言っているように、これは漱石にとって、当たり前のことを当り前にしたまでに過ぎなかったからである」

文部大臣と漱石の間で板挟みになった福原鐐二郎は明治17年(1884)、18歳の漱石が入学した大学予備門で漱石の同級生であった。

徹底していた博士嫌い、権威嫌い

漱石は博士号に対する批判的考えをいつ頃から抱いていたのだろうか。漱石は、ロンドンでの留学生活がほぼ1年を経過した明治34年(1901)9月22日、妻・鏡子に宛てた手紙に書いている。

「先達、御梅さんの手紙には博士になって早く御帰りなさいとあった。博士になるとはだれが申した。博士なんかは馬鹿々々敷(ばかばかしく)。博士なんかを難有(ありがたが)る様ではだめだ。御前はおれの女房だから其れ位な見識は持って居らなくてはいけないよ。・・・」

御梅さんは妻・鏡子の妹である。同年8月15日の漱石の日記に「故郷より妻、妻の父、梅子より手紙来る。妻より冬の下着2着、ハンケチ2枚、梅子よりハンケチ2枚送り来る」とある。梅子さんは家族と遠く離れ異郷の地ロンドンで、一人研究生活を送る義兄を励ます積りで、ハンケチと一緒に私信を送ったのであろう。ところが漱石の逆鱗に触れてしまった。<博士嫌い>は既に漱石には骨の髄までしみ込んでいたのである。博士号に対する漱石の過敏な反応ぶりは、ロンドンから帰国しても収まる気配はなかった。門下生らに宛てた手紙からもその事実が読みとれる。

「吾輩は猫である」を発表し、作家としてデビューした明治38年(1905)11月10日、鈴木三重吉に宛てて書いている。

「中川君(門下生)などがきて、先生は今に博士になるそうですなかといわれると、うんざりたるいやな気持になります。先達て僕は博士にはならないと、呉れもしないうちから中川君に断って置きました。そうじゃありませんか、何も博士になるために生まれて来やしまいし」

翌・明治39年(1906)1月10日、門下生の森田草平に送った手紙に記している。

「先達、(土井)晩翠が年始状をよこして、まだ教授にならんかと云うから、『人間も教授や博士を名誉と思う様では駄目だね。失楽園の訳者土井晩翠ともあるべきものが、そんな事を真面目にいうのはよくない。漱石は乞食になっても漱石だ・・・』と云う様な事をかいてやりました。」

漱石が指摘するように、人間は博士になるために生まれてきたわけではない。博士になるもならぬもその人の自由である。しかしながら「乞食」のたとえは激烈である。「荒城の月」の作詞者も、漱石の啖呵を切るような台詞には驚いたと思われる。この明治39年、漱石は「坊っちゃん」を書いている。上記の手紙の論調は、江戸っ子坊っちゃんの直情な生き様に、どこか通じるものがある。教頭赤シャツに向かって「憚(はばか)りながら男だ」と憤慨する坊っちゃんと土井晩翠に「乞食になっても漱石だ」と書き送った漱石のイメージが重なってくる。

大学屋と新聞屋

東京帝大における夏目金之助(漱石)の身分は、英文科の専任講師であった。明治43年(1910)3月には教授に推薦される話が持ち上がっている。創作への情熱を抑え難くなった漱石は大学教師(漱石の言う「大学屋」)を辞めて、朝日新聞の専業作家(同「新聞屋」)へと転身してしまった。「入社の辞」は意表を突く内容だった。当時の世俗的な価値観に従えば、栄誉ある帝国大学教授就任の好機を放棄して、新聞社に鞍替えする漱石の選択は、国民に奇異な(場合によっては無謀な)印象を与えたはずだからである。常軌を逸した行動と取る人もいたであろう。「入社の辞」を漱石はこう締めくくっている。

「新聞社の方では教師として稼ぐことを禁じられた。その代わり米塩の資に窮せぬ位の給料をくれる。食ってさい行かれれば、何を苦しんでザットのイットのを振り廻す必要があろう。やめるなと云ってもやめて仕舞う。やめた翌日から急に背中が軽くなって、肺臓に未曾有の多量な空気が這入ってきた。(中略)。人生意気に感ずとか何とか云う。変り物の余を変り物に適する様な境遇に置いてくれた朝日新聞の為に、変り物として出来る限りを尽くすは、余の『嬉しき義務』である。」

漱石は、入社時から10年足らずの人生の間に、10冊をこえる名作を書き上げて行く。「嬉しき義務」の遂行であった。漱石が最初に書いた新聞連載小説は明治40年(1907)6月23日~10月29日にかけて掲載された「虞美人草」である。この長編小説の中で、漱石は博士論文を書いている若い文学者・小野清三を登場させている。小野は恩賜の時計をもらって東京帝大を卒業し、教授からも将来を嘱望される秀才である。自分の未来を博士の称号に託している。小野にとって、「博士は学者のうちで色の尤(もっと)も見事なるものであり、未来の管を覗く度に博士の二字が金色(こんじき)に燃えている」というのである。

だが漱石は小野を実に情けない人間として描いた。意気地がなく、優柔不断で女々しい人間として描いている。妖しい雰囲気を漂わす美貌の女性、藤尾の色香に惹かれた小野は、結婚を内諾したのも同然の間柄にある小夜子の存在が、徐々に疎ましくなってくる。幼い時に孤児となった小野は、かつて小夜子の父である恩師の井上孤堂の世話になり成長した。小野には心変わりを孤堂先生に伝える勇気がない。そこで、博士論文執筆中の多忙を口実に、結婚の断わりを孤堂先生に入れてくれるよう、友人に懇請する。漱石は、作品中で孤堂先生に「人一人殺しても博士になる気か」と叫ばせる。漱石の<博士嫌い>は極点に達した。                         
参考文献:「夏目漱石」(小宮豊隆)、「漱石とあたたかな科学」(小山慶太)、「夏目漱石」(福原麟太郎)、「夏目漱石事典」(編者・平岡敏夫、山形和美、影山恒男)など

(つづく)

© 株式会社新建新聞社