「地域と大学教育」 誰が学ぶ立場なのか 川口 幹子氏

 地方創生の推進が叫ばれるようになり、各地の大学で「地域」や「社会」を冠

する学部、学科の創設が相次いだ。文部科学省でも「地(知)の拠点」事業として、地域を牽引する人材の育成を目的とした教育カリキュラムの改革を支援している。

 そうした大学は、地域でのフィールドワークをカリキュラムに加えているケースが多い。実際に離島や中山間地域に赴き、地域が抱える課題を把握したうえで、課題解決のためのアイデアを提案するといったプログラムである。先日ある大学の先生から、フィールドワークをきっかけに地方での就職を希望する学生が出てきたという話を聞いた。地域教育が成果を挙げている証しであろう。

 一方で、こうした大学教育が、地域の負担になっていないのかも考えてみてほしい。典型的な例が「ヒアリング疲れ」である。入れ代わり学生が訪ねてきては同じ質問を繰り返され、イベントへの参加を求められて行けば、毎回同じような提案を聞かされる。

 「学生ならではの視点で地域が気付かない活性化のアイデアを」というのが謳(うた)い文句だが、アイデアだけで地方が良くなるのではない。実際は、アイデアは既にあって、ないのは実行する担い手なのだ。実現するには、学生が想像だにしない幾多のプロセスがある。そのプロセスを理解し、地域を牽引する人材となるには、強い意志、そして時間が必要だ。

 農漁村にはそれ自体に教育力がある。まずはじっくりと農林漁業体験や職業体験、祭への参加などの文化体験を行うべきだ。都会で育った学生にとっては、そうした体験自体があまりに衝撃であり、魅力や課題の発見は自然になされる。

 その中で、強い問題意識を抱いたり、ぜひとも実現したいアイデアが生まれたりした場合は、学生だけでなく、教員や地域を含めたプロジェクトチームを作り、実行できる体制を整えるまで、ある程度長い期間腰を据えて関わる。そうした2段階のプロセスが必要ではないかと思う。

 歴史や文化、自然景観、産業、そしてそこに携わる人々。それらは地域の価値ある資源であり、教材である。それらが教育という名の下に搾取されてはいないだろうか。一方的に大学が地域を教育できるという妄想を捨て、地域の教育力を大学が利用しているという意識を持つべきだ。もっと地域の教育力を信じ、頼ればよいのだ。いわば教育のアウトソーシングである。大学や文科省は、そのための予算をしっかりと確保する必要があるだろう。

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