【第16回】生きる、ありのままに 隔離と差別の歴史越えて ハンセン病回復者が願う

ハンセン病回復者の中修一さんは、雨で屋内での開催となった原告団の花見に車で駆けつけた。ノンアルコールビールを手に他の原告や支援者らとの話が弾んだ=熊本県合志市の国立療養所「菊池恵楓園」(撮影・藤井保政)

 昨年4月、震度7を2度記録した熊本地震。熊本市北区の県営住宅に住む中修一さん(74)は余震が続く中、夜は近くの小学校の体育館に身を寄せた。
 まひが残る右足を引き、こわばった手指で支援物資を受け取る。中さんは、かつて「らい病」と呼ばれ差別された、ハンセン病の回復者だ。
 長年押し込められた、熊本県合志市の国立療養所「菊池恵楓園」を出たのは15年前。「地震で大変な状況だけど、療養所に戻ろうとは思わん。この社会で生きたい」

 

 ▽壮絶な人権侵害

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 中さんは太平洋戦争さなかの1942年、鹿児島県の奄美大島で生まれた。終戦後の食料がなく貧しい生活の中、10歳で発病した。免疫力が低く衛生状態が悪いと、発病率が上がるため「時代が悪かった」と話す。
 中学卒業と同時に国立療養所「奄美和光園」に入り、2年過ごした後、高校がある岡山県の療養所へ向かう。「卒業したら働いて、故郷の母に仕送りをしよう」。そんな思いを胸に、船で着いた鹿児島県内の駅で見たのは「らい患者輸送用」と書かれた汽車と人々の冷たい視線だった。
 「人を見下すまなざしがこんなに恐ろしいとは。差別とは、人間の夢や希望まで奪ってしまう」
 1年で和光園に戻るが、19歳で飛び出し大阪市のスーパーで働き始めた。初の給料で買ったパンのおいしさは忘れられない。女性とデートもした。
 だが、9年後に病気が再発。療養所に行くか、死ぬか―悩んだ末に生きることを選んだ。県営住宅に移るまで、恵楓園での生活は30年以上続く。
 中さんは大阪時代、不自由な足のことを問われると「ハブにかまれた」とうそをついていた。「自分を偽らんと生きていけん。こんな悲しいことはない」との思いが、その後の原動力となる。
 「隠れていたら何も伝わらない」と、恵楓園を出た後は地域の活動に積極的に顔を出す。家族に偏見が及ばないよう偽名を使う回復者も多いが「中修一」は本名だ。「闘うとは自分をさらけ出すこと。この名前、この体で生きたい」と語る。
 

 ▽未来へ

 花見があった日、1300柱を超える遺骨が並ぶ恵楓園の納骨堂には、線香の匂いが漂っていた。中さんと交流がある熊本県菊池市の稲田京子さん(60)が、市民ボランティアガイドとして長崎県からの見学者を案内した。園と外界を隔てた高さ約2メートルの壁、旧監禁室…。「入所者がどれほど人権を奪われたか、自分の目で見て考えてほしい」と呼び掛けた。
 「理解は深まっているが入所者が高齢化し、学びたい方に対応できない」と稲田さん。全国13の国立療養所に1500人を超える入所者がいるが、平均年齢は85歳に迫る。隔離の歴史をどう語り継ぐかは大きな課題だ。
 3月9日、熊本県大津町の町立大津中学校。中さんが自らの半生を振り返り「人の足を踏んだとき、自分は痛くないけど相手は痛いよ。差別も、する側は何げなくやっても、される側は死ぬほどつらい」と語り掛けた。
 当時1年の約150人が聞き入り「治っているのに隔離するのはおかしい」「差別やいじめはどうやったらなくなるのだろう」と声が上がった。
 未来を担う子どもたちへ、中さんは伝え続ける。「ハンセン病だけでなく、いろんな病気や障害がある。一人一人事情が違っても、ありのままで生きていける社会は、あなたたちがつくっていくんだよ」(共同=兼次亜衣子)

国立療養所「菊池恵楓園」でボランティアガイドを務める稲田京子さん(右端)。昨年の地震で被災し中に入れなくなった旧監禁室の前で熱弁をふるう=熊本県合志市(撮影・藤井保政)

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