【製鋼原料商社 共栄創業90周年】〈郡義信社長に聞く〉扱い200万トン、利益10億円へ 「常に挑戦者であり続けたい」

 鉄スクラップなど製鋼原料商社の共栄(本社・兵庫県神戸市中央区、社長・郡義信氏)は今月、創業90周年を迎えた。近年は集荷エリア拡大や産業廃棄物処理事業への参入を狙いとした溝江商店・誠美社工業のグループ化、またシマブンコーポレーションおよび扶和メタルとの鉄スクラップ事業に関する業務提携(略称・FKS)など、積極的な投資や取り組みを続けている。同社の現状や将来像などについて、郡社長に話を聞いた。(宇尾野 宏之)

――90周年を迎えて。

 「当社に関わるすべてのステークホルダーの皆さんのおかげ。スクラップを売っていただくお客様、買っていただくお客様、さらに協力会社の皆さんなど本当に多くの方々に支えられ、90周年を迎えることができたと思っている。皆様に深く感謝申し上げたい。ただ、私個人としては、これまで働いてくれた、またいまも働く社員に何よりも感謝したい」

――現状は?

 「2008年のリーマンショック前のピーク時には売上高で1千億円弱、鉄スクラップ扱い数量で200万トン弱だったが、昨16年12月期実績は売上高で約330億円、扱い量で約155万トンとなった。特に扱い量はここ数年右肩下がりで、原料商社としてじくじたる思いがある。バブルが弾け、グローバル化で国内工場が海外移転し、さらに少子高齢化もある。国内発生量は確かに減少傾向で、扱いが減るのは仕方のないこともあるだろう。だが、今年の扱い量は前年比20万トン増の175万トン程度になる見通しだ。東京五輪需要のほか、老朽化対策などもあり、ピークには届かないが、ここ数年間続いた減少に歯止めはかかった。好景気に加え、社員のがんばりのおかげだと考えている」

――収益は?

 「16年の経常益は約9億円だったが、そのほとんどは在庫評価益。実力ベースでは扱い量の減少に伴い、減益だ。17年は7億円程度で減益になりそうだが、扱い量は増えており、実力で稼いだ数字だ。加古川・衣浦工場のギロチンシャーの完全オーバーホールなどの費用も含んでおり、実質増益だと考えている」

――投資案件について。

 「収益を設備投資などに回し、『戦える現場』とし、強固な営業基盤をつくっていく。今年も神戸工場でのプレス新設など3億円近い投資を進行中だ。また、M&Aについても集荷エリアの拡大や総合リサイクル事業の拡充を目指し、それに合致した案件を検討していく」

――薄鋼板販売の阪栄鋼材も完全子会社化しました。

 「20%の出資だったが、将来を考え、全額出資にした。社員を大事にするのが当社のやり方。一体運営をすることで、厳しい販売環境にあっても、しっかりと支えられるようにした」

――FKSの現状は。

 「万トン単位の鉄スクラップ共同輸出、工場備品などの共同購入といった当初目標の業務は一通りできた。たいへん順調に進んでおり、信頼関係も醸成されている。次のステップに移る段階にあると考えている。当社が注力する産廃事業に関するコンセンサスなど、まだまだ話し合い、検討し合う必要もあるが、この提携は将来、さらに重要性を増すと考えている」

――貴社の将来像は?

 「第1の目標として、鉄スクラップビジネスは当社の基本であり、『扱い量200万トン・経常益10億円』は常に目指していく。社員の物心ともに安定した生活を守るにはこれくらいの規模が必要だと考えている。発生量が増えない中、現状維持も難しいのに、どうやって扱いを増やすのか、とも思われるだろうが、縮小傾向にある他業界でも業容を拡大する企業はある。できないことではないはず。事実、今年は好景気でもあったが、営業努力の結果として扱い量が20万トン程度増える。来年は、北朝鮮情勢など政情不安を除けば、悪くなる要素は見当たらない。さらなる上積みを目指せるはずだ」

 「ただ、伸ばしていくのも容易ではない。それを補えるよう、溝江商店や誠美社工業もグループに加えている。2社合わせて経常益で2億~2億5千万円程度を稼げる収益力があり、本体で8億円、グループ企業で2億円以上の経常益を稼げる。社員のがんばりもあって、グループで経常益10億円というのは、十分に達成可能な目標だ」

 「また、第2の目標としては、今後の柱となる事業として総合リサイクル業も育てていく。共栄本体、そして溝江商店と誠美社工業の各社を強化しながら、これらをコラボレーションし、新しいスタイルを作りだすことが必要になる。このほか、第3の目標としては輸出入ビジネスおよび海外事業など新たな試みにチャレンジすることも必要になるだろう。モットーは『私たち共栄は常に挑戦者であり続けたい』ということ。10年後の100周年、そして200周年を迎えられるよう、社員を中心とした強固な経営基盤を構築していきたい」。

共栄、90年の歩み/鉄スクラップ調達にまい進/全国規模に拡大

初仕事、タイから神鋼に50トン納入

 共栄は昭和2年、鈴木商店に務めていた寺崎栄一郎氏と松岡朗氏が、東南アジア地域を中心に雑貨・鉄スクラップおよび鉄鋼半製品の輸出入を手掛ける貿易商社・共栄商会として創業した。

 初代社長を務めた松岡氏が社員会会誌『ひびき』で創業当時の詳細を次のように語っている。「寺崎氏が大阪で砂糖の商売を始めるが私にぜひ参加する様にとの誘いを受け」ともに事業を始めた。ただ、「寺崎氏は鈴木商店の頃ジャバ(タイ)にも久しく勤務せられ砂糖に関しては相当なエキスパートだった」ものの、「定期取引など簡単にうまくゆくはずもなく一度の取引だけで断念の止むなきにいたった」という。

 砂糖のほか、鈴木商店時代にタイから買い付けていたのが、「熔解用屑鉄」。砂糖から商売を鉄スクラップに切り替え、神戸製鋼所の承認を得て、50トンを成約した。共栄の創業は昭和2年だが、松岡氏によると、この商売が行われたのは昭和3年。これが製鋼原料商社としての共栄の出発点となった。

シマブンとの合弁事業も

 共栄は昭和8年、島文商店と協同出資で神戸銀砂株式会社を設立している。兵庫県の硅石粉砕工場で高級鋳物向けの生産を手掛けた事業だったが、「難問題が山積した」(松岡氏)ことで、3年間ほどで閉鎖している。

 こうした事業を振り返りながら、松岡氏はシマブンとの関係について「鉄屑面ではライバル同志として常に競争の立場にあったが、反面神戸製鋼の指定問屋の大先輩として色々指導を受けたことも少からず持ちつ持たれつの間柄であるが両社の今日あるは良い意味でのライバルとして双方に意識したことが大であると思ふ」と記している。

 その後、昭和15年には戦時体制を整えるため、民間企業の合同が促進され、兵庫県では、共栄中心の兵庫鉄屑株式会社、そして島文商店を主体とした神戸鉄屑株式会社が設立した。松岡氏は当時を「県下を二分してしのぎを削った」と回想している。

 だが、昭和16年、両社は兵庫県金属回収株式会社に統合。戦争色が濃くなる昭和18年には安宅商会(後の安宅産業、昭和52年に伊藤忠商事に吸収合併)と協同で、南方鉄屑輸入組合共栄隊(班とも書いている)を組織し、占領後のシンガポールで輸入業務を手掛けた。

 「戦災にて本社事務所を失ったので…兵庫笠松通りに急造した狭いながらも置き場もある新事務所に移りとにもかくにも営業を開始し戦後の第一歩を踏み出したのであった」(松岡氏)。

戦後、川崎製鉄の指定問屋に

 戦争ですべての商権を失ったが、兵庫鉄屑の事業を引き継ぎ、兵庫県下で事業を再開。納入先を川崎重工業に定めた。昭和25年には川崎重工業から川崎製鉄(現・JFEスチール)が独立し、その鉄スクラップ調達について「西山弥太郎社長直々の要請を受け、川崎製鉄の指定問屋となった」(向田正克元社長)という。これを契機に集荷エリアを全国ベースに拡大し、いまに続く基盤を整えていった。

 その後、川崎製鉄をはじめとする高炉メーカー数社と取引関係を持つに至ったが、昭和31年には「鉄屑カルテル」が結成された。これにより、川崎製鉄との契約のみが残り、それ以外は打ち切られてしまうが、ちょうどそのころ、台頭著しい電炉メーカーから納入要請が寄せられ、メーカー数社の直納商社となった。

 これに応えて、価格の乱高下を抑えながらスムーズな流通量を得るためには、自社玉の確保が必要と判断。資金の許す限りヤードを創設、さらには途絶えていた輸入業務も再開した。その後、『国内メーカーへの安定供給』を方針として、共栄は全国規模で営業を展開していくことになる。

会社概要

 ▽資本金=4千万円

 ▽グループ従業員数=約300人

 ▽集荷・営業拠点など=本社、東京営業所、清水出張所、衣浦工場、大阪工場、大阪営業所、神戸工場、加古川工場、播磨ヤード、姫路営業所、水島営業所(第二工場)、水島第一工場、水島第三工場

 ▽グループ企業=溝江商店、誠美社工業、阪栄鋼材

 ▽株主=社員持ち株会など

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