【江戸川鉄栄会 創立50周年】「親睦」「和気あいあい」が特長 新年会などイベント大盛況

 東鉄連構成団体のひとつである江戸川鉄栄会が、今秋に創立50周年の節目を迎えた。その歩みを振り返るとともに、纐纈元会長(こうけつ・はじめ=交告商店社長)に話を聞く。(文中、敬称略)

 東京の最東端に位置する江戸川地区。この地を発祥とする鉄商仲間が、互いの親交や自社の発展を願って同業者の会を結成しようと地元の料理屋に集まった。今からちょうど50年前の話である。

 1967(昭和42)年10月1日に江戸川鉄栄会が発足した。参集した27社の中には井口鋼材の先代社長である井口登や市松鋼材創業者の宇田川鍬蔵、石道鋼板初代社長の石原道夫らそうそうたる江戸川鉄商たちの名前や顔ぶれがそろい、楠本正二(丸正鋼材)が初代会長に推された。

社歴の浅い「鉄屋衆」

 このころ、すでに都内では神田や八丁堀、本所、亀戸といった地域で鉄屋の団体が活動していた。神田鉄栄会や本所鉄交会は、戦後まもない昭和23年に立ち上がり、その後数年を置かずして京橋鉄友会や城南鉄鋼会、亀戸鉄睦会、城北鉄交会が産声をあげている。

 これら鉄屋団体の連合組織として昭和30年には東京鉄鋼販売業連合会(東鉄連)も発足。その東鉄連が母体となって千葉・浦安沖の埋め立て地に鉄屋の新天地を開墾・誕生させるべく時の西山伝平、清水五一郎、大川辰夫、山口喜久治、加藤忠男…ら東鉄連のリーダーたちが先導し「東鉄連浦安鉄鋼団地組合(現在の浦安鉄鋼団地協同組合)」を昭和38年に立ち上げ、新たな一大鋼材物流基地づくりを推し進めていた。

 江戸川の鉄屋は、昔から地場に根づく一部の老舗を除けば比較的歴史の浅いところが多い。本所や神田、亀戸界隈で鉄屋稼業に従事していた独立心の強い血気盛んな若者が、高度経済成長を追い風に、都心に近く、それでいてまだ地価の安かったこの地に小さいながらも〝自城〟の「看板」を掲げたからだ。

 同じ鉄を生業(なりわい)とする仲間が集まれば、自然とそこに寄合も生まれる。根っからの地場鉄商や他地区で都市化の波に押されてこの地に来た移転組も加わり、他団体に遅れながらも自然な流れで「地元の鉄屋の会」が創られたのだろう。

 ただ、昭和42年に発足した江戸川鉄栄会が、東鉄連に加盟(昭和48年)するまでに6年かかっている。今の浦安第1鉄鋼団地が竣工したのが昭和44年。浦安鉄鋼団地に土地を保有するには、東鉄連の会員企業であることが暗黙のルールである。

 それについては、このころの会員各社は社歴が若い分、資金力にも乏しく、事業規模も小さい。しかも当時の江戸川地区にはまだ土地が多く、地元で拡張の余地があったことから「大金をはたいて浦安に出ていく」のは〝雲の上の話〟だったに違いない。

 「そうはと言っても『いずれは浦安に出ることもあるだろうし、他団体が東鉄連に入っているんだから江戸川鉄栄会さんも…』と周囲に勧められて加盟することになったのではないか」とは、会の歴史に詳しい宇田川耕作(5代会長、市松鋼材社長)の弁である。

多彩な町工場の集まり

 江戸川区は、区の東西を江戸川と荒川に挟まれ、東側は千葉県と隣接し、南端で東京湾と接する。地域柄、往時は臨海都市開発や河川の護岸工事、区内の親水公園造成といった公共事業が盛んに行われ、その最盛期には「江戸川の鉄屋は区内の仕事でメシが喰える」と言われたほどだった。こうした地域特性もあり、会員の業種は当初から多種におよぶ。

 現在の会員企業の事業内容をみても厚板・極厚板の溶断加工業あり、薄中板やステンレスの精密加工業あり、電磁鋼板流通あり、各種一般鋼材の小売りあり、丸鋼・太丸といった特殊鋼のきめ細かい加工業あり、形鋼パイプの曲げ加工業あり、建築金物・二次製品販売業あり、その他各種加工・製作業あり、製鋼原料(鉄スクラップ)取扱業あり、機材リース・レンタル業あり…と多彩だ。

 今も昔もメンバーの企業規模は鉄屋の中でもさほど大きくなく、その大半が「家業」として代々続くオーナー系である。

 トップが朝一番に出勤し、作業着に着替え、自らが電話をとって見積もりを作成。時にヘルメット姿で現場作業に汗を流し、時に軽トラを運転して得意先回りの最前線に立つ。従業員が引けたあとも遅くまで図面とにらめっこしながら電卓をたたき、必要とあれば休日もいとわずにきめ細かく納期要請に応えている。

 まさに典型的な「町工場」スタイルである。口数も多くなく「背中でみせる」タイプの古き良き鉄屋風情が、今なおところどころに色濃く残るのが、江戸川鉄商の雰囲気というか気質かもしれない。

 27社で発足し、最盛期には44社を数えた江戸川鉄栄会も現在は30社。日本経済が成熟し、鉄鋼内需が構造的な頭打ちとなって鉄屋の商売環境も「いいとき」より「厳しいとき」のほうが長くなった。

 会の存在意義や会員メリット云々…を問う以前に、中小零細の鉄屋にとってはいくら「堅実経営」を続けていても、客先であるエンドユーザーの事業縮小や集約、あるいは事業地移転などに大きく左右され、鉄屋稼業そのものを存続・繁栄させることが容易ではなくなったご時世である。

 加えて、江戸川鉄栄会のような地域団体にとっては、都市化の波によって地場密着スタイルが成り立ちにくくなったという事情もある。そもそも、江戸川の地に縁のない新入会員も増えて〝ご近所さん〟的な寄り合いづきあいは望みづらくなった。

子供が楽しむ行事満載

 それでも江戸川鉄栄会は今、明るく活気に満ちている。会の存在意義を「会員相互の親睦」と位置づけ、定例行事の中に会員企業の従業員とその家族が参加できるイベントを盛り込む。いつも決まって大盛況だ。

 毎年秋に開催する「社員家族慰安の集い」はそのひとつだが、50周年の今年は節目に相応しくベイエリアホテルでのランチビュッフェと東京ディズニーランド満喫を企画したところ過去最高の250人が参集した。図らずも開催日の10月1日は、50年前に会が発足した日と同じであり、関係者にとっては何かの縁を感じさせた。

 また新年会も、近年はホテルのディナービュッフェが定着。他団体の多くが、会員企業の代表者や上層幹部同士あるいは来賓関係者に対するビジネスライクな時節の挨拶行事なのに対し、江戸川鉄栄会のそれは、アトラクションなど娯楽要素をふんだんに採り入れ、一般従業員や幼い子供を含む家族が楽しめる和気あいあいとしたイベントなのが特長だ。

若手とベテランが一体「互いの信頼関係」活性化の源

 一方で定時総会は、会員企業の代表者がそろい、厳かに年次総括しあう雰囲気。メリハリが効いているので親しき間柄であってもなぁなぁにならず、一定の節度と緊張感をもって運営しているのも、時の会長たちのリーダーシップの賜物だろう。

 歴代会長は初代楠本のあと2代井口登(井口鋼材)、3代石原道夫(石道鋼板)、4代大澤秀男(大澤商店)、5代宇田川耕作(市松鋼材)、6代酒井昌幸(江東金属)、7代纐纈協(交告商店)、8代梶哲夫(梶哲商店)そして現在は9代纐纈元が指揮を執る。7代纐纈と9代纐纈は、江戸川鉄栄会初の親子会長である。

 11月10~12日には50周年記念事業最大の目玉である台湾旅行を実施。現地最大手の一貫製鉄メーカー、中国鋼鐵(CSC)視察およびCSCスタッフとの懇親をメーンに、南北主要都市の名所・旧跡観光めぐりを行い、参加した14人にとっては実に有意義な時間を過ごした(2面参照)。

 内輪の記念式典でありながら、唯一のゲストに上部団体である東鉄連の星野義春常務理事を招いた。日ごろから「東鉄連あっての江戸川鉄栄会」を標榜する纐纈らしい計らいである。

台頭めざましい若手会

 半世紀の道のりは、決して順風満帆ではなく、会の先人に聞けば、かつては会の中に派閥があり、会員間でギクシャクしたこともあったんだとか。会の財政危機問題にも長く悩まされてきた。支出を切り詰め、しかし事業内容は陳腐化させずむしろ華やかさと斬新さを打ち出し、1人でも多くが「参加したい」と思わせるよう企画を練って大勢の参加を促しながら一部を受益者負担制にすることで事業の活性化と内部留保に努めた結果、財政の健全化を果たした。

 8代会長梶の、それまでにない柔軟な発想が功を奏した。特筆すべきは、梶の時代に立ち上げた「若手会」が、会の事業企画立案の中核を担い、会長の意向に合わせながら具体的な「カタチ」に落とし込むやり方が実った。

 その新しい流れを、現会長の纐纈も踏襲。若い世代が工夫を凝らしながら機敏にフットワークよく率先垂範するしくみが定着しつつある。なにをかくそう、初代若手会の会長が、現会長の纐纈である。親会の会長就任に伴い、後進を染谷光拡(信和商会)に託したが、染谷も親会幹事を兼ねており、さらには副会長の那須政美(木村鋼材店)と松本延寿(松本鋼業)、会計幹事の中村武史(中村機材)らの若手も両方の会に籍を置く。

 中心メンバーが両会にまたがっており、しかも親会の要職にあるということで話がまとまりやすく事業・イベントの企画立案・実施までのプロセスが効率的に進みやすいのも頷ける。

〝地味にすごい〟が「江戸川らしさ」

 紆余曲折を経て50周年を迎えた江戸川鉄栄会。若手が台頭し、会運営の原動力を担えているのも、それを理解して任せるベテランや重鎮たちの「度量の大きさ」があってこそ。若手は先輩を立てながらその期待に応える努力を惜しまない。双方が信頼し合っているから、今の江戸川鉄栄会は、世代に関わらず雰囲気がいい。

 5年前の45周年の際、時の会長だった梶が、5年後の50周年を視野に入れ「江戸川鉄栄会は『誰のため、何のために存在するのか』について考える機会にしたい」と投げかけ、その答えを次世代の担い手に問うた。

 5年を経過した今、会の担い手が世代交代しても活気は衰えず、しかも参画率を高めたことで梶の宿題を若手がクリアしたわけだ。

 企業も団体も、大切なのは「永続と発展」であることを1人ひとりが認識しているから江戸川鉄栄会は伝統にあぐらをかかず、変化しながら歴史を築いていこうと前進する。

 幸い、今の若手メンバーは有望株が多く、纐纈に続くリーダー候補にも事欠かない。60年そして70年…と「江戸川らしさ」を貫いていくことだろう。

 「らしさ」とは〝地味にすごい〟であり、近年では会長時代の梶が東鉄連の副会長職を歴任。纐纈も現在、東鉄連厚板部会長を兼務しており「江戸川の存在感」を東鉄連でも存分に発揮している。さらには昨年の東鉄連親睦ゴルフ大会(本紙共催)で染谷が総合優勝し、松本も総合3位に輝いた。加盟団体対抗戦でも江戸川チーム(染谷、松本、梶大吉=梶哲商店、駒崎一秀=駒崎商店)が優勝し〝地味にすごい〟を内外に示したのは記憶に新しい。江戸川鉄栄会の誇りとして語り継がれていくはずだ。(太田 一郎)

纐纈元(こうけつ・はじめ)会長に聞く/社員・家族を大切にする気質

――節目を迎えた心境から。

 「歴代会長はじめ過去の先人たちのご苦労や指導力に敬意を表するとともに、これまで紆余曲折ありながらも会の運営を支えてくださった会員企業および会に所属する社員とその家族に感謝申し上げます」

――「50周年記念事業」を実施しました。

 「まず10月1日に、毎年恒例の社員家族慰安の集いを拡張し、舞浜でランチビュッフェを楽しんでもらったあと東京ディズニーランドを満喫してもらったところ、例年を大幅に上回る総勢250人が出席。節目のイベントとして大盛況でした」

 「そして11月10~12日の3日間、台湾・中国鋼鐵(CSC)視察を目玉とする台湾への周年記念旅行を開催。参加した14人全員が大いに見聞を広げ、実に有意義な現地視察・名所観光ができました。企画立案に携わっていただいた役員・関係者に、この場を借りて御礼申し上げます」

――会の雰囲気はいかがですか。

 「以前、私がまだ駆け出しだった頃、会合に出席すると会のお歴々が格式高い地元の老舗料亭の上座に陣取り、私ども若輩は下座でかしこまって場の雰囲気をわきまえながら1人ひとりにお酌し、お言葉をいただくという、そういう昔ながらの寄り合い風情がまだ残っておりました。今も先輩を敬い、ベテランや重鎮への礼節を重んじながらも、随分とフランクで和やかな感じになりました。世代間の差がグッと縮まったというか、若い世代が増え、その若手が会の運営の中核を担うようになり、それを先輩方が厳しくも優しく見守ってくださる会の風土が出来上がったように感じております」

 「それこそ私の知らない頃の話ですが、先人に聞くと、かつては会の中で派閥があり、会員同士がギクシャクしたこともあったそうです。今はそういう険悪なムードはありません。私も、この雰囲気を大切にし、同じ地で発祥した同業者同士が会に集まれば楽しく有意義だと感じていただけるよう尽力したいと考えています」

――さて、これからの鉄栄会ですが。

 「50周年は、大きな節目ではありますが通過点でもあります。今後60年、70年…と良好な会の運営を持続するめには、何と言っても個々の会員企業が健全で堅実な経営ができ、自分たちの生業(なりわい)や会の事業活動に明るい展望を抱けることが必須です」

 「そのために会も会員企業も市場環境の変化に合わせて変えていくべき部分は変えなければなりません。でも変えるべきではない部分、すなわち昔から連綿と受け継がれてきた『江戸川らしさ』や『社員や家族を大事にする風土』『なりは小さくても志は大きく、先輩と後輩、ベテランと若手とが互いに尊重しあう江戸川の気質』『会の歴史や歩みを重んじた上で変化への挑戦に躊躇しない江戸川の鉄屋魂』は、世の中がどう変化しようとも踏襲しつづけていきたい」

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