【特集】「無数の問い」の底にある問い 隠れた差別も映す「1968年」展

By 佐々木央

「1968年」展の図録

 トーハクといえば東京・上野の東京国立博物館、カハクは同じ上野にある国立科学博物館、ミンパクは大阪・千里万博公園の国立民族学博物館のことだ。どれもなじみがあるが、千葉県佐倉市のレキハク、国立歴史民俗博物館には足を向けたことがなかった。

 「レキハクの『1968年』展、面白いよ」と複数の友人に勧められ、会期末も迫った週末、歴博を訪れた。かなりの人で混み合っていて、しかも、なかなか前の人が動かない。みな熱心に展示資料に見入り、解説を読み込んでいる。

 サブタイトルは「無数の問いの噴出の時代」。展示のキーワードだけを拾っても「ベトナム反戦(ベ平連)」「三里塚」「水俣」「全共闘」…と多くの運動が展開され、権力や権威、体制に抗して、若者を中心に闘ったことが分かる。(47NEWS編集部、共同通信編集委員佐々木央)

 挑戦的な企画

 だが「1968年」展の意図は、あの時代の記憶を呼び覚ますことにとどまらないようだった。記憶を記録としてとどめることは当然だが、それを美化したり、ノスタルジーに回収したりせず、今につながる「問い」をえぐり出し、突き付けること。ものごとの本質や根拠を問わないぬるま湯のような時代にあって、挑戦的な企画だと思った。

 ゆっくりと約2時間見て、考えて、最後の展示パネルに引きつけられた。タイトルは「全共闘運動とウーマンリブ」、筆者は大阪産業労働資料館(通称「エル・ライブラリー」)館長、谷合佳代子。その文章は展示の一切合切を最初から見直させるほどの「問い」だった。

 帰宅してから図録を繰って反芻する。見事なまでに「男」ばかり。女性で闘争の主体として目立つのは、水俣病の石牟礼道子ぐらいか。写真に写っていても、その名が記されている人は少ない。

 谷合はこう書き起こす。

 「日本のウーマンリブは全共闘運動への批判として、運動の中から生まれた」。そして、ベ平連でも活躍した藤枝澪子の言葉を引用する。「ウーマン・リブ運動は、新左翼運動の歓迎されざる娘だった」

 その特質は何か。再び谷合の言葉。
 「それまでの運動とは大きく異なっていた。セクシャリティを肯定し、『婦人』というお上品な言葉を拒否して『おんな』を高らかに宣言した」

1970年12月8日、「性差別への告発」を掲げ東京・赤坂付近をデモ行進する女性たち。真剣な戦いもマスコミからは「色物扱い」だったと谷合は言う

 そんな運動がなぜ起きたのか。自由や平等、平和を求めたはずの全共闘運動の実質こそが問われたのだ。

 「ラディカリズムを求めて全共闘運動に飛び込んだ女子学生たちが男たちに命じられたのは、お握りを握ることであり、『銃後を守る』役割であっただけでなく、性的対象としてのみ把えられる者すらいた」

 革命家気取り

 その具体的な内容として、谷合は日本のリブの先駆者、田中美津の回想を引く。田中が赤軍派と出会ったときのことだ。

 「武装闘争とか過激派というものの正体見たりって感じよ。女の活動家はもっぱら炊事、洗濯、電話番、弁護士との連絡、拘置所への差し入れ等が仕事、そのお蔭で使わないですんでいるエネルギーで内ゲバしたり激論を交わしている革命家気取りの男たち」

当時のこの写真へのキャプションは「ヘルメットも勇ましくジグザグデモをするウーマンリブの闘士に整理の警察官もタジタジ」。まさに色物扱い

 最も身近にある差別を、差別として認識することは簡単ではない。身近で日常的だから、かえって見えにくいということがある。差別する側にとって、それをはっきり自覚することは、過去と現在の自分を否定することを意味するから、見ないですませたいという意識も働く。

 被差別者の側も、無意識にせよ、差別の構造を逆の立場から支えてきたと感じるなら、同じような困難に直面することになる。

 それでも差別を差別として把握するなら、それまでの平穏な風景は一変するだろう。

 男と女、大人と子ども、先生と生徒、見た目、出自や資産、「普通」からの偏差、何かができる人と困難な人…。それらに由来する差別や偏見から、私はどれほど自由だろうか。そして差別や偏見を見つけたとき、それを除去するためにどれだけの努力を払っているだろうか。

 それは展示会が示した「無数の問い」の中で、私にとって最も深い「問い」だった。(敬称略)=「1968年」展は12月10日に閉幕

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