【清水鋼鉄 あす創業80周年】〈清水孝社長、武藤政史氏(前浦安鉄鋼団地協同組合専務理事)に聞く〉 北海道への電炉進出が一大転機

 清水鋼鉄は12月23日に創業80周年を迎える。故清水五一郎氏が昭和12年に東京・本所に清水商店を創業して以来、「太丸の清水」で知られた特殊鋼販売業を皮切りに、鉄スクラップディーラー業、自由鍛造製造業、電炉・鉄筋棒鋼製造業へと事業を広げ、4事業を柱とする異色の企業体として歴史を編んできた。3代目の清水孝社長にこれまでの軌跡や新たな飛躍に向けた思いを聞いた。清水家と親交が深く、来春刊行予定の80年史の編集に携わる武藤政史氏(前浦安鉄鋼団地協同組合専務理事)にも同席を願い、五一郎氏、2代目の故清水範子氏の業界活動における足跡も聞いた。(谷山 恵三)

――80周年を迎えての率直な思いを伺いたい。

 清水「80年史の原稿を読んで、あらためて五一郎、範子の両氏は大変な時期を乗り切ってきたと思うし、4事業をやり続けてきた大変さと努力を考える機会になっている。一方でこれからは内需が減少していく時代であり、電炉、鍛造は規模拡大ではなく付加価値向上を追求する。やり方を変えて行かなければいけないし、自社だけでできないことは他社との連携を含めて考えていきたい。そうした思いをさらに強くしている」

――80年の詳しい足取りは社史に譲るとして、清水鋼鉄の歩みを概観すると。

 清水「大きくは戦前と戦後に分けられる。創業翌年には型打鍛造業も始めて、戦争でゼロに戻り、戦後は鉄スクラップ業、自由鍛造業、電炉・圧延事業と矢継ぎ早に事業を拡大した。戦後の一番の転機は北海道で電炉事業を始めたことだろう。問屋からメーカーへの転身は珍しく、浦安鉄鋼団地でも異質な会社だと思う」

――転機は多々あっただろうが、一例としてはどのようなことが。

 清水「平成8年に電炉をリプレースしたが、実は平成2、3年の平成バブル期に電炉リプレースを計画していた。範子社長に交代したばかりの頃で、約200億円の投資額になるが、業界全体が前がかりになっていたし、銀行も融資してくれるし、『やろう』と盛り上がっていた。五一郎会長だけが『これはおかしい、止めよう』と。私の入社前のことだが、社長も従業員も当時は大変ショックだったと聞いている。結果的に後に3分の1以下の投資額で実行できた。あの時に設備投資を行っていたら経営が傾き、少なくとも今とは違う会社になっていた。会社に勢いがあり、皆が『行くぞ』と言っている時に止めさせたのは、五一郎さんの偉さだったと思う」

 武藤「五一郎さんは当時よく『武藤君、こんな景気がいつまでも続くわけがないよ』と言っておられた。おそらく先が読めるからそう言われたのではなくて、先が読めないから安全策を取られたのだと思う。浦安鉄鋼団地の運営でも、そういう判断の仕方をされることは何度もあった」

浦安鉄鋼団地の誕生/故五一郎氏が獅子奮迅

――清水鋼鉄の現在と今後について聞く前に、五一郎氏、範子氏の業界活動での足跡も伺いたい。武藤さんは奇しくも清水鋼鉄と同じ昭和12年生まれで、浦安鉄鋼団地を草創期からよく知っておられる。

 武藤「浦安鉄鋼団地も東鉄連(昭和36年発足)も全鉄連(昭和45年発足)も五一郎さんの発案でできたといって過言ではないと考えている。私が業界に入ったのは昭和38年。ちょうど浦安に鉄鋼団地を造ることが決まり、浦安鉄鋼団地協同組合の前身である東鉄連浦安団地組合が設立された年だった。理事長が西山伝平氏、副理事長が大川辰夫氏、山口喜久治氏で清水専務理事、加藤忠男事務局長という布陣で、実質的には五一郎さんが県や町との交渉を引き受けて具体的なプランを出し、正副理事長がバックアップするという体制をとっていた」

 「鉄鋼団地を造ったころ、五一郎さんは50代、西山さんにしても60歳を越えたあたり。その人たちが200社を引っ張って社運を賭ける決断をさせた。時代もあったろうが、本質的に頭が良かったし、大した人たちだとつくづく思う。鉄屋の土地と言えばせいぜい30坪、持っていても50坪で、100坪の倉庫や工場を持っていれば大店だった時代に1社当たり500坪以上の土地購入を決めた。『そんな大きな土地を何に使うのかね』という批判もあったが、鉄鋼団地が成功し、各社が成長するための礎になった。ちなみに昭和46年に通産省による鉄鋼流通に関するヒアリングの場として鉄鋼流通問題懇談会(鉄流懇)が発足したのも、鉄鋼特約店の地位を向上させ、特約店の声をメーカー、商社にも届けたいという強い思いから、五一郎さんが提唱したことだった」

――2代目の範子氏は平成元年に社長に就任し、平成19年に長男の孝氏に後継を託して会長に就任。平成22年に浦安鉄鋼団地協組理事長に就任し、平成26年2月に理事長のまま逝去した。鉄の世界で女性が活躍する先鞭をつけ、東日本大震災で液状化被害に見舞われた浦安鉄鋼団地の復興でも遺憾なくリーダーシップを発揮した。

 武藤「範子さんの副社長時代は清水鋼鉄が一番苦しんでいた時期だったと思う。逆に言えば、この時期に範子さんは非常に勉強された。その間も業界の仕事をされていたが、五一郎さんも範子さんも自分の会社が苦しいとか愚痴は一切言わなかった」

 「浦安鉄鋼団地協組に所属する企業の若手・中堅世代の経営者や幹部候補社員の集まりである『U―ing』は範子さんが第3代の代表幹事を務めた時代に現在の活動の原型が形作られた。女性らしい気配りに加え、父譲りの企画力、実行力の持ち主だった。お二人とも目の前の利益だけを追う経営者ではなかったし、孝社長もそのDNAを受け継いでおられると推察している」

4事業のシナジー追求/付加価値向上、他社とも連携

――話を変えて、清水鋼鉄の現在と展望について伺いたい。今後目指す方向性は。

 清水「90年、100年への道筋は見えてきたと考えているが、これまでと同じことをやっていたら生き残れない。世の中の変化に合わせて変わり続けていける企業を目指していく。鉄筋、鍛造、特殊鋼、鉄スクラップの4事業をうまく融合させ、相乗効果で力を発揮していきたい」

 「メーカーとしては『製品を造るのではなく、商品を創る』をモットーにしてきた。出荷して終わりではなく、お客様に使って頂くところまで考える姿勢は今後も堅持する。宇都宮製作所は20~40代が中心で、苫小牧製鋼所はもっと若くて20代が半分近くを占めている。そうした若い人たちが先頭に立っていけるようにしていきたい」

――電炉、鍛造は付加価値向上を目指し、他社との連携も前向きにということだが。

 清水「苫小牧では東京鉄鋼さんと提携を結んで『ネジテツコン』、『パワーリング』、高強度せん断補強筋『SPR785』の生産を始めており、さらに注力していく。RC造からS造への変化が進んでいる中で、RC造を増やしていく活動にも注力していく。鉄筋の付加価値を高めるとともに、建築業界の人手不足に対して工法と材料の両面で鉄筋工事の省力化を提案しており、『鉄筋プレハブ工法による省力化の実証実験見学会』は東京鉄鋼さんと全道で引き続き行っていく」

 「宇都宮では鍛造、粗加工に加えて、仕上げ加工や熱処理の強化に取り組んでいる。『清水鋼鉄に任せておけば何でもできる』と思っていただける体制作りを協力会社さんと進めていく」

 「特殊鋼販売は祖業だが、当社の事業規模は小さいため、この事業単独では発展は難しい。他事業と組み合わせるとともに、浦安鉄鋼団地の立地を生かして、特殊鋼、鉄スクラップ事業を続けていきたい」

――苫小牧では圧延設備を更新する。

 「今週から圧延工場を休止し、来年3月末までに棒鋼ラインの粗圧延スタンドを更新する。高強度鉄筋の生産とダイレクト圧延の拡大などが目的だ。粗スタンドを5スタンドから6スタンドに更新し、圧延途中でビレットの割れやきずを防ぐためのクロップシャーも1基増設して2基とし、品質向上を図る」

 「『ネジテツコン』や高強度品の生産拡大に対応する設備はまだ不足している。棒鋼ラインの粗圧延スタンドは今回更新するが、仕上げスタンドや精整設備はいずれ手を入れたい。製鋼工場も20年を超えた。12月に電炉に助燃バーナーを付帯させたところで、これから少しずつリフレッシュしていく」

――宇都宮では一昨年にマニプレータを更新し、高合金用熱処理炉も導入した。

 清水「自由鍛造品や特殊鋼部門の圧延丸棒の付加価値向上に力を入れており、昨年は仕上げ加工機を導入した。車輪・車軸では、今までは車軸の加工は外注先で行い、車輪と車軸の焼き嵌め接合を別の外注先で行っていたが、全て自社で出来る体制を整えた。まだ自社の大型の鍛造品まで対応できる設備ではないので、将来は設備投資を含めて大型化対応を考えていく」

――若手主体のユニークな組織を立ち上げているそうだが。

 清水「全社でASK30(明日の清水鋼鉄を考える30人)というワーキンググループを結成し、今春から活動を行っている。メンバーは20~40代で女性も7人ほどいる。彼らがいま30項目近い提案を策定していて、できるものから実現していく。一例としては、子供の介護休暇を小学校入学までから卒業までにするとか、リフレッシュ休暇を新設するとか。労働時間や休暇に関する事項が多いが、設備投資を含めて幅広く討議してもらう」

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