①原城跡(南島原市) 「島原の乱」激戦舞台 禁教政策 強化の契機に

 4月上旬、南島原ひまわり観光協会会長を務める内山哲利さん(69)の案内で原城跡を歩いた。丘の頂上にある本丸跡に立つと、早緑がまぶしい丘陵と、海を隔てて指呼の間にある天草の島々を見渡せる。

 内山さんが「原城は天然の要害」と説明した。原城は1604年、キリシタン大名有馬晴信が完成させた周囲4キロの巨城で、東南北の三方を海や湿地に囲まれた断崖の丘を利用して築いた。築城当時は満潮になると、現在国道が通っている西側にも海水が入り込み、隔絶された島のようになった。

 有馬氏の本拠だった日野江城は原城から約3キロ北方にある。晴信は豊臣秀吉の朝鮮出兵で交流した諸大名から最新の築城技術を学び、日野江城から本拠を移すことを想定して広大な原城を築いた。
 原城は戦前の1938年、国史跡に指定された。1615年に江戸幕府が出した一国一城令で廃棄され、役割を終えたはずの原城が歴史に名を残しているのは、「日本史上最大の一揆」といわれる「島原・天草一揆(島原の乱)」の舞台になったからだ。

「島原・天草一揆」で一揆軍が立てこもった原城跡の本丸。海の向こうは天草=南島原市南有馬町(小型無人機ドローン「空彩1号」で撮影)

 ▽悪政に反抗

 晴信はキリスト教を手厚く保護したため、島原半島の領民は、ほぼ信徒になっていた。信徒組織の信心会が地域で組織され、熱心に活動した。
 だが、幕府は1614年、キリスト教の信仰を全国で禁じた。有馬氏に替わり領主となった松倉氏は重税を課した上、キリシタンを雲仙地獄の熱湯に投げ込むなどして激しく弾圧した。
 飢饉(ききん)と悪政に絶望した島原半島南部の農民は1637年12月、ついに蜂起する。代官を次々に殺害し、松倉氏の居城島原城を攻めた。呼応し決起した天草の農民と合流して約3万7千人に膨れ上がり、廃城の原城に立てこもった。

 弾圧で棄教した人も信仰に復帰した。一揆軍は「救世主」と仰ぐ天草四郎を総大将にして結束した。鎮圧に来た幕府軍と激しく戦い、上使(総大将)の板倉重昌を戦死させた。

 新しい上使の松平信綱は兵糧攻めを採った。オランダ船に原城を砲撃させ、西洋からの援軍に期待する一揆軍を揺さぶった。幕府軍12万余は翌年4月、士気が落ちた一揆軍に総攻撃を仕掛けた。幕府軍に内通していた山田右衛門作(えもさく)を除き、子どもや女性も皆殺しにした。四郎は討ち取られ、原城も徹底的に破壊された。

 ▽遺体を封印

 1992年に始まった原城跡の発掘調査で浮かび上がったのは、一揆軍のあつい信仰と、それに対する幕府軍の強烈な嫌悪感だった。

 本丸跡では、キリストや聖母マリアなどを刻んだメダイ(メダル)や、ロザリオの玉、鉛の銃弾を溶かして作った十字架など信仰用具が多く出土した。一揆軍が最期まで身に着けていたものだ。

 正門付近では一揆軍の人骨が大量に見つかった。骨の状態から、幕府軍が首や足を切って容赦なく殺害したことが裏付けられた。幕府軍は一揆軍の遺体を通路に集め、両側の石垣を崩して巨石を落とし、その上に土をかぶせて完全に「封印」していた。

 一揆軍はキリシタンの祈りを唱和してから

戦っていた。原城からは常に賛美歌や祈りの声が聞こえていただろう。落城の際には、笑顔で炎の中に飛び込む子どももいたという。

 「一揆軍は四郎と共に天国に行くことを望んでいた。死を恐れぬ農民の姿に幕府軍は恐怖を感じたのではないか」。内山さんが言った。

 来世の救いを求めた民衆のけなげな信仰も、権力者から見れば「狂信的な反体制思想」となる。島原の乱で衝撃を受けた幕府は、鎖国と禁教の政策を一層強化した。

 1644年、国内で活動していた最後の神父、マンショ小西が殉教した。残された日本のキリシタンたちは、本格的な潜伏の時代に入った。

正門(左側)から本丸に続く虎口(出入り口)付近。無数の遺体を埋めるため、両側の石垣を崩して土をかぶせた=原城跡

◎メモ

 JR諫早駅前から島鉄バスで口之津まで1時間半。同バスで口之津から原城前まで20分。徒歩10分。約2キロ北西に発掘調査の出土品などを紹介する有馬キリシタン遺産記念館がある。問い合わせは南島原ひまわり観光協会(電0957・85・3217)。

◎コラム/人の業 問い掛ける

 原城本丸の正門跡近くに「ほねかみ地蔵」という古い地蔵塔が立っている。内山さんは来訪者を案内する際、「ここに一礼してから行きましょう」と勧める。

 乱の後、原城跡は忌み嫌われた。約130年後、ようやく開墾が始まったが、あちこちからおびただしい人骨が出てきた。1766年、集めた骨を埋め、願心寺(南島原市北有馬町)の住職と地元の人々が地蔵を建てて供養した。

 原城では子どもや女性を含め数万人が殺された。海岸には2万人の首が並べられたという。戦争という極限状態に置かれたとき、人は何をするのか。ここは人の業を問い掛ける記憶の地といっていい。
 国文学者の八波則吉(やつなみのりきち)は、こんな慰霊の詩を残した。

 「ほねかみ地蔵に花あげろ/三万人も死んだげな/小さな子どももいたろうに/ほねかみ地蔵に花あげろ」

                               (2017年04月21日掲載)

戦死者を供養して江戸時代に建てられた「ほねかみ地蔵」=原城跡

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