【3割打者を考える(1)】初代ミスター・タイガースもこだわった生涯打率3割

NPB通算打率10傑

「3割打者」としてキャリアを終えた初代ミスター・タイガース藤村富美男

 1958年、初代ミスター・タイガース、藤村富美男は現役に復帰した。2年前までプレイングマネージャーだったが、引退して1957年は監督に専念していた。しかし、1958年に監督交代を告げられたため、藤村は一選手として現役に復帰した。

 これによって、歴史的な顔合わせが実現した。この年に立教大学から巨人に入団したゴールデンルーキー、長嶋茂雄と試合で対戦したのだ。長嶋は千葉県の出身だったが藤村冨美男の大ファンで、その華麗な守備に憧れて中学時代に遊撃手から三塁手に転向したのだった。

 この年9月7日の甲子園での阪神-巨人戦、ダブルヘッダーの第1戦で、2人のスタメンでの初顔合わせが実現した。長嶋は4番三塁、藤村は7番一塁。この試合で長嶋は4打数2安打打点1二塁打1本の活躍、藤村は2打席凡退した後、一塁を藤本勝巳に任せて退いた。これがスタメンでの両雄の唯一の対戦だった。

 42歳になる藤村はこの時点で19打数2安打、かつての大打者も寄る年波には勝てず、成績は下落した。その後、なおも藤村は代打を中心に出場したが、9月28日の中日球場での中日戦に6番一塁で先発出場したのを最後に、試合に出なくなった。これには理由があった。

1958年シーズン終了時点での打率10傑は

 この頃、元阪神の二塁手で、当時マネージャーをしていた奥井成一が、藤村富美男の通算成績を算盤を弾いて調べていて、あることに気がついたのだ。藤村は、この時点で5648打数1694安打、打率は.29993、四捨五入して3割ちょうど。しかし、このまま使い続けると、あと9打席で通算打率が3割を切ってしまう。

 奥井は監督の日系二世、カイザー田中(田中義雄)にこのことを報告した。これを聞いた田中は以後、藤村を2度と試合に出さなかった。これによって、藤村は「3割打者」としてキャリアを終えることとなった。藤村本人が監督の田中に抗議した形跡がないことを見ても、藤村にも「3割打者」へのこだわりがあったのだろう。

 1958年シーズン終了時点での、3000打数以上の打者の打率10傑は以下の通り。

1与那嶺要(巨人).331(3307打数1093安打)
2川上哲治(巨人).313(7500打数2351安打)
3中西太(西鉄).312(3167打数988安打)
4大下弘(西鉄).303(5246打数1590安打)
5別当薫(毎日).302(3191打数965安打)引退
6藤村富美男(阪神).300(5648打数1694安打)
7飯田徳治(国鉄).293(5420打数1589安打)
8西沢道夫(中日).286(5999打数1717安打)
9金田正泰(阪神).285(5354打数1527安打)引退
10後藤次男(阪神).283(3260打数923安打)引退

 のちにNPBの通算打率は4000打数以上で紹介されることが多かったが、当時は3000打数が一般的だった。

プロ野球史の転換点となった1958年という年

 この年は藤村富美男のほかに、川上哲治、西沢道夫とのちに殿堂入りする大選手が引退し、長嶋茂雄がデビューした歴史の転換点とも言うべき年だったが、藤村は当時の基準で史上6人目の「3割打者」で終わることに、強いこだわりを見せたのだ。

 5位に、かつてともにダイナマイト打線を組んだ別当薫がいたことも藤村を刺激したかもしれない。戦前からたたき上げの選手だった藤村と、慶應ボーイで戦後颯爽とデビューした別当は何から何まで対照的だった。2人の強打者はそりが合わなかったと言われている。

 1950年の二リーグ分立時に藤村は阪神に残り、別当は新球団毎日に移った。別当は1957年に引退しているが、別当が「3割打者」で終わったことも、藤村には気になっていたのではないか。このランキングで西沢道夫までの8人は、すべて後年、野球殿堂入りしている。

 豪快で物事にこだわらない豪傑タイプと言われた藤村富美男でさえも、「3割打者」にこだわった。「3割打者」とは何なのか、思索を深めていきたい。

(Full-Count編集部)

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