静かに平和訴える被爆樹木 「いつまでも元気に育って」被爆者の宮本博文さん

 長崎原爆の爪痕を残しながら、今も静かにまちなかに立ち続ける「被爆樹木」。73年前の惨状の「生き証人」として存在感を示してきたが、近年、枯死するケースが相次いでいる。危機感を抱いた長崎市は樹木医による定期的なパトロールを検討するなど保存の取り組みを強化。被爆者らも被爆樹木の「平和を訴える力」を後世に伝えようとそれぞれの活動に励んでいる

 長崎市若竹町のバス通り沿いに、1本の柿の木がある。樹齢270年とされ、幹周りは2・2メートルあるが、高さは6メートルほどしかない。根元には黒く焼け焦げた跡があり、一部は白い合成樹脂で覆われている。  「かつて高さは15メートルはあった。被爆して枯れるのだろうと思っていたが生き続けた」。近くに住む被爆者の宮本博文さん(82)は、柿の木を仰ぎ見て、73年前のあの日を語った。

 宮本さんは1945年8月9日、現在も暮らす若竹町(当時の西北郷)に住んでいた。自宅のすぐそばに生えていた柿の木は、子どもたちの格好の遊び場だった。登ったり、セミを捕ったり、実を食べたり。「道の向かいの家まで枝が伸びているほど大きかった」

 9歳の宮本さんは、自宅の中で四つ下の弟と遊んでいた。突然、虹色の光が障子に映し出されたかと思うと、爆風に吹き飛ばされた。気が付くと、倒れた壁の下のわずかな隙間にいた。幸いにもけがはなかった。

 隙間から出て周囲を見渡すと、弟や、台所にいたはずの母と親戚の女性の姿がない。「とにかく逃げないと」。家の外に出たが、その先の道をふさいでいたのが、折れた柿の木の枝や幹だった。枝や幹からは煙が立ち上っていた。必死の思いで、枝を手でかき分けくぐり抜けていった。

 近くの川にたどり着くと、家族がいた。弟はけがはなかったが、母は左胸が切れて血を流し、親戚の女性はほほをやけどしていた。顔や腕の皮膚が垂れ落ちている人もいて、川の水を掛けてやけどを冷やしていた。

 柿の木は、大きな幹の下部だけが残った。「枯れてしまうだろう」と思っていたが、翌春には新しい枝や葉が生え、その次の年の秋には実を付けたという。「よく実ができたなとは思ったが、あまり関心はなかった」。戦後は、食べていくことで精いっぱいだった。

 だが柿の木は被爆の影響か次第に衰えていった。94年、所有者の依頼で長崎市多以良町の樹木医、海老沼正幸さん(68)が腐った部分を削ったり、殺菌剤を塗るなどして治療に当たり、樹勢を取り戻した。海老沼さんは96年から、柿の木の種や枝から育てた苗木を植樹するプロジェクトを本格的に始め、国内外の学校などに広めていった。

 そのことを宮本さんが詳しく知ったのは、近くの西北小から柿の木についての講話を依頼された2012年になってからだった。「原爆であれだけ焼けたのに、今でも元気に生きて、『2世』は世界中に広まっているなんて思いもしなかった」

 そこから、柿の木の所有者に話を聞くなどして植樹プロジェクトについて学び、同年7月、西北小5年生に被爆体験や柿の木について初めて講話をした。柿の木が、被爆した逃げ道をふさいだこと、被爆しながらも樹勢を回復させ、その苗木は世界中で植樹されていること。そして、「柿の木に負けない立派な人間に成長することを願っている」と思いを伝えた。講話を聞いた児童たちは、翌13年2月、体育館の前に「2世」の苗木を植えた。

 それ以来、宮本さんは毎年、同校の5年生に講話をするようになった。かつては自分の行く手を阻んだ柿の木。だが、今ではともに被爆を体験した“仲間”のように思える。「柿の木を見れば自然と元気が出てくる。ずっと元気に育って、世界中で平和の大切さを伝えてほしい。私も体が許す限り、子どもたちに平和の尊さを訴え続ける」

被爆柿の木の前で、被爆体験を語る宮本さん=長崎市若竹町

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