『おらおらでひとりいぐも』若竹千佐子著 74歳の脳内を行き交う記憶と感情

 物語の主人公「桃子さん」は、74歳の女性である。若い頃に郷里を捨てて上京したから、東京在住歴の方が長いはずなのに、今、彼女の脳内にあふれる思考の、ほとんどが東北弁なのである。その、脳内の実況中継が、綿密に重ねられた1冊である。

 「桃子さん」は、何人もいる。何かを思うと、それを否定する桃子さんや、ツッコミを入れる桃子さんがいる。この家のどこかで呼吸をしているネズミのことを考え、自分の老いっぷりについて考える。あれを考えているうちに、これを思い出す。そうすると、あれを忘れてしまう。あれ。何考えてたっけ。桃子さんの自問自答は延々と続く。

 ひとりで暮らすって、こういうことである。自分の視界に入るものと、自分の思考の範囲内で日々が進む。だからそれ以外の異物があらわれるとうろたえるし、持っている以上の能力を必要とする物事は最初から望まない。

 桃子さんの脳裏を、今は自分のそばにいない子どもたちのことがよぎる。自分が母親から受けた仕打ちを、自分の子どもには絶対すまいと誓いながら、でも娘は「兄のほうが可愛がられている」と思い込んで育ち、息子はあまりにも親を垣間見ないので、桃子さんはうっかり「おれおれ詐欺」の罠にかかってしまう。そして彼女は述懐する。自分はあまりにも母親として生きすぎたと。子どもたちに自分の人生を仮託するあまり、子どもたちから決定的な何かを奪ってしまった。自分の人生を生きる喜び。人のせいにせず、自分の足で人生を歩む生き方。

 転じて、今、自分は自由だ。孤独ゆえの自由。そう思うことで孤独(ゆえの寂しさ)をねじ伏せようとするけれど、いや自分はやはり寂しいのだと、認めざるをえない日もある。桃子さんぐらいの熟練者なら、そいつをねじ伏せる方法のひとつやふたつ知ってそうだけれど、孤独ってやつはそこまで容易くはないのだ。

 ……と、ここまでが「桃子さん」という女性の基本形である。でこぼことした、少し煤けてもいる大きなキャンバスに彼女は、孤独ではなかった頃、そばにいてくれた人への思いと思い出を、絵の具にして描き連ねていく。幸福も自責も恨みもすべて。東京オリンピックを機に激変した自分の人生を思い返しながら。

 「わたし」ではなく「おら」の人生。愛する人に先立たれ、ここまでひとりで生きてきた、その意味を探し歩く「おら」の人生。

 多くの読者は思うはずだ。これは、いつかの私の姿だと。

 物語の終盤、それはそれはぎりぎりのタイミングで、桃子さんのもとを小さなぬくもりが訪ねてくる。そのことにじんわりと温められながら本を閉じた。

(河出書房新社 1200円+税)=小川志津子

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