長嶋茂雄、澤村栄治、星野仙一、イチロー…偉大な野球人たちの「20歳の頃」

大谷翔平とイチロー【写真:Getty Images】

ベーブ・ルース、ジャッキー・ロビンソンらの20歳の頃は…

 1月8日は成人の日。今年の日本球界では、楽天のオコエ瑠偉外野手、中日の小笠原慎之介投手、ロッテの平沢大河内野手ら全38選手が「新成人」として、祝福された。

 オコエ、小笠原ら1軍で活躍し始めている選手もいれば、まだ2軍で着々と力を蓄えている選手もいる。では、日米の偉大なる野球人たちは、同じ「20歳を迎えるシーズン」にどんな境遇にいたのか、見てみよう。(早生まれの選手も同じ学年で統一)

○ベーブ・ルース(1914年)
 セント・メアリー少年工業学校から、マイナーのボルチモア・オリオールズに入団。マイナー・リーグでプレーをするが、7月にメジャーのボストン・レッドソックスにトレードされる。左腕投手として7月11日には初登板、初勝利。打者としては10打数2安打。投打の才能が発揮されるのは、翌年からだ。

○沢村栄治(1936年)
 日本プロ野球がスタートした年。夏シーズンは巨人の第2次アメリカ遠征に参加し、4試合の登板にとどまったが、秋シーズンは15試合で13勝2敗で最多勝。9月25日のタイガース戦では、1-0でプロ野球史上初のノーヒットノーランを記録した。

○ジャッキー・ロビンソン(1938年)
 前年、パサデナ短大に入学。陸上競技と野球の両方で頭角を現し、多くの大学からオファーを受ける。MLBはアフリカ系アメリカ人への門戸を開いていなかったため、プロ野球選手になることは考えていなかった。アフリカ系アメリカ人初のMLB選手になるのは9年後の1947年。

大谷はプロ2年目で投打で才能見せつける

○長嶋茂雄(1955年)
 立教大学の2年生。砂押邦信監督は、長嶋の才能に注目し、正三塁手に抜擢。秋シーズンは35打数12安打1本塁打12打点、打率.343(3位)。しかし、この年、4年生の大沢昌芳(のちの大沢啓二)らによる砂押監督排斥運動が起こり、監督は辞任。長嶋の抜擢が一因だったとされる。

○野村克也(1955年)
 長嶋茂雄の同級生。京都府、峰山高校から南海ホークスに入団して2年目。肩が弱かったため捕手失格の烙印を押され、一塁手にコンバートされる。この年、1軍昇格はなく、2軍でプレー。24試合に出場し、打率2位の.321を記録。捕手としては2試合だけ。あとは一塁手だったが、弱点だった肩を鍛え、翌年には正捕手の座を勝ち取る。

○星野仙一(1966年)
 明治大学の2年生。すでに一線級の投手として活躍。秋シーズンの立教大学2回戦では、史上15人目のノーヒットノーラン(6奪三振、2与四球)を記録。1年先輩の高田繁とともに、プロ野球スカウトに注目される。

○落合博満(1973年)
 東洋大学硬式野球部に入るも、半年で退部、大学もやめる。ボウリング場でアルバイトをしたのがきっかけで、ボウリングに熱中し、プロボウラーになることを志して猛練習に励む。しかし、交通事故がきっかけで、プロテストを受験できず。プロ野球選手になるのは、6年後のことだった。

○イチロー(1993年)
 愛工大名電高校からオリックス・ブルーウェーブに入団して2年目。まだ登録名は、鈴木一朗。開幕は1軍スタートだったが、4月24日の試合終了後、2軍行きを命じられる。1軍では43試合64打数12安打1本塁打3打点0盗塁 打率.188、2軍では48試合186打数69安打8本塁打23打点11盗塁、打率.371。2軍では空前の46試合連続安打を記録。翌年、新任の新井宏昌コーチ、仰木彬監督に見いだされ、イチローと登録名を改めてブレークする。

○大谷翔平(2014年)
 プロ入り2年目。投手としては6月4日にパ・リーグ史上初の160キロを記録。7月5日、20歳の誕生日のロッテ戦では初の1試合2本塁打を記録。投手としては11勝4敗、防御率2.61、打者としては212打数58安打10本塁打、打率.274、NPB初の10勝10本塁打を達成。MLBの1918年ベーブ・ルースの13勝11本塁打以来と報じられる。

(石川加奈子 / Kanako Ishikawa)

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