佐世保と安全保障 エンプラ事件から半世紀(1) 市民意識 無言のデモ50年 傍らを通り過ぎる人々

 昨年12月19日夜、クリスマスの電飾に彩られた佐世保市中心部のアーケード。「歩きましょう 平和のために」と書いた横断幕を手に黙々と歩く20人ほどの集団がいた。毎月19日に続ける「19日佐世保市民の会」のデモ行進。「1月で50年か」。元教員の山辺直人さん(77)は佐世保を舞台に繰り広げられた戦後史に残る「エンプラ事件」の光景を思い起こした。

 1968年1月19日、「動く核基地」と称された世界初の米原子力空母エンタープライズが佐世保港に入った。艦載機はベトナム戦争の空爆に参加。補給などを目的とした国内初の寄港だった。盛り上がりを見せた学生運動と相まって、反戦や反核基地化を唱える全国の学生や労働団体がその矛先を佐世保に向けた。

 「(日本が)後方支援をすることは戦争に加担すること。寄港は絶対許さない思いがあった」。当時九州大の学生でデモに参加した長崎市の男性(69)は振り返る。抗議活動への参加者は9日間で延べ約5万4千人に上り、警察も延べ約5万1千人が警備に従事。米海軍基地に通じる平瀬橋や佐世保橋を封鎖した警察隊と、基地突入を図るデモ隊が衝突した。

 放水や催涙ガス、投石、警棒、角材が入り乱れる市街戦さながらの様相。70人が摘発され、500人以上の負傷者を出す流血の惨事となった。もみ合いになった男性も公務執行妨害などの罪で起訴され、有罪判決を受けた。「社会変革の力になり得るという気持ちがあった。過激と言えば過激だが、市民の支持もあった」と語る。

 労組の動員でデモに参加した山辺さんは「国家権力にぶつかり、傷ついた学生に市民も同情的だった」と記憶する。学生たちが残した“熱”が市民を動かし、エンプラ寄港の翌月、19日市民の会が結成された。

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 抗議活動を冷ややかに見る市民もいた。中心部の商店街はトラブルを避け、臨時休業にしてシャッターを下ろした。元商店主(76)は「空母が入れば通りは乗組員であふれ返った。社会運動なんだろうけど、われわれからすれば迷惑な話」と渋い表情を浮かべた。

 原子力空母や原子力潜水艦の佐世保寄港はその後も続き、緊迫化する朝鮮半島情勢と呼応するように昨年の原潜の寄港回数は26回と過去最多を記録。市民の会は反戦の灯を絶やさず、「無言のデモ」は昨年12月で599回を数えた。ただ黙々と歩く静かなデモの傍らを家路を急ぐ市民らが足早に通り過ぎていく。無関心か許容か-。「ずっと慣らされてきたとでしょうね。私たちが細々とでも態度で示していかんば」。山辺さんはつぶやいた。

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 米海軍基地や陸海の自衛隊施設を抱える基地の街・佐世保。その歩みは日本の戦後史と重なり、今も安全保障を巡るうねりの中にある。「佐世保と安全保障」の第1シリーズは半世紀を迎えた「エンプラ事件」を振り返り、原子力艦船を巡る佐世保の現状を伝える。

デモ行進する「19日佐世保市民の会」。反戦の灯を絶やすことなく、ともし続けている=昨年12月19日、佐世保市中心部のアーケード

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