最年少で殿堂入りの松井秀喜氏 日米を舞台に本塁打と共に歩んだ野球人生

史上最年少での野球殿堂入りを果たした松井秀喜氏【写真:Getty Images】

1992年ドラフト1位で巨人入り、NPBではタイトルを総ナメ

 平成30年度プレーヤー表彰で野球殿堂入りを果たした松井秀喜氏は、1974年6月、石川県生まれ。同級生には村田善則、野口茂樹、小林雅英、大友進、後藤光貴、今岡誠、森慎二、澤崎俊和、井口資仁、清水将海、黒田博樹、菊地原毅らの野球人がいる。同い年で唯一の現役選手には、中日の岩瀬仁紀がいる。MLBではデレク・ジーター、ボビー・アブレイユ、ミゲル・テハダ、ジョー・ネイサンらが同じ1974年生まれだ。MLBでも現役選手はR.A.ディッキー(現在FA)だけになった。

 星稜高校時代にスラッガーとして頭角を現し、1年生から4番を任され、1年生夏、2年生夏、3年生春夏と4度甲子園に出場。3年夏の甲子園では、2回戦の明徳義塾戦で5打席連続敬遠されて大きな話題となったが、星稜高校はこの試合で敗退し、甲子園優勝は果たせなかった。1992年11月のドラフトでは4球団から1巡目指名を受けるが、巨人の長嶋茂雄監督が当たりくじを引き当て、交渉権を獲得。ドラフト同期にはヤクルト伊藤智仁らがいる。

 1年目から1軍で起用され、11本塁打、27打点、打率.223の成績だった。2年目の1994年からはフル出場し、1998年に38本塁打、100打点で初タイトルを獲得。NPBでは首位打者1回、本塁打王3回、打点王3回、最高出塁率3回、MVP3回を受賞するなど、日本球界を代表する強打者になった。2002年には50本塁打を記録したが、これは日本人選手としては1986年の落合博満(ロッテ)以来。その後、日本人で50本塁打を記録した打者はいない。1988年に開場した東京ドームをはじめ、日本の球場のサイズはMLBの球場と遜色ない両翼100メートル、中堅120メートルが標準になったが、球場が大きくなってから日本人で50本塁打を記録したのも松井秀喜だけだ。

 2002年オフに海外FA権を行使してニューヨーク・ヤンキースに移籍。NPB出身の日本人野手としては2001年のイチロー、新庄剛志、2002年の田口壮に続く4人目のMLB挑戦だった。ヤンキースでは中軸を打ち、2003年はジェイソン・ジアンビの107打点に次ぐ106打点をマーク。デビュー年から3年連続で100打点を挙げ、2004年には31本塁打を放った。NPB出身の日本人選手で30本塁打、100打点をマークしたのは松井秀喜だけだ。2005年には打率.305を記録(9位)、イチロー(打率.303、11位)を初めて抜いた。

ヤンキースでは2009年にワールドシリーズMVPを獲得

 ヤンキースの主力選手として信頼を集めていた2006年5月11日のレッドソックス戦。「5番・左翼」で出場していた松井は、1回表にマーク・ロレッタの左飛を捕球しようとして左手首を骨折し、長期離脱を余儀なくされる。巨人時代から続いた連続出場は「1768」で途切れる形となった。同年9月12日の復帰戦では4打数4安打と活躍し、喝采を浴びた。

 以後もヤンキースの中軸選手として活躍したが、左ひざの故障が悪化し、徐々に成績が低下。そんな中、2009年に行われたフィリーズとのワールドシリーズでは、6試合で13打数8安打3本塁打8打点と大爆発。優勝を決めた第6戦では殿堂入りした大投手ペドロ・マルチネスから先制ホームランを放つと、さらにタイムリーヒットで続くなど4打数3安打6打点の大活躍し、日本人初のワールドシリーズMVPに輝いた。しかし、ヤンキースは松井との契約を続行せず。このオフにFAとなり、エンゼルスと契約。アスレチックス、レイズでもプレーし、2012年限りで引退した。

 NPBでの通算は1390安打、332本塁打、889打点、打率.304

 MLBでは通算は1253安打、175本塁打、760打点、打率.282

 MLBでの通算本塁打、打点は、NPB出身の日本人選手最多を記録している。日米両方での1000安打は、イチローに続き2人目。オールスターにはNPBで9回出場、MLBでも2回選出されている。松井秀喜氏の43歳7か月は、2014年の野茂英雄氏(45歳4か月)を更新する最年少での殿堂入りとなった。この実績を考えれば、当然と言えるだろう。

(Full-Count編集部)

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