「禁断の移籍」を許して後悔した9つのケース

アレクシス・サンチェスは本当にマンチェスター・ユナイテッドへ移籍してしまうのか?

サッカー界では選手の移籍が当然行われるもの。中には直接のライバルに行ってしまうことも。

今回は『FourFourTwo』から、移籍を許したことで大きな後悔に結びついたケースを紹介。

アンドレア・ピルロ

移籍:ミラン→ユヴェントス

移籍金:フリー

当時世界で最も鮮やかなMFの一人であったピルロを余剰人員とする。その考えは、あまりにも馬鹿げているように見える。

しかし、ミランは2011年にそう考え、32歳の彼との契約を延長せず、直接のライバルであるユヴェントスへと放出した。

2000年台のミランの成功を導いたピルロ。しかしマッシミリアーノ・アッレグリ監督のシステムから弾かれてしまい、まだ成功に飢えていた彼はユヴェントスと握手を交わした。

彼を手に入れたアントニオ・コンテのユヴェントスは、新しいスタジアムと選手たちの下でイタリアを支配。2011-12シーズンにスクデットを獲得して以来、一度も手放したことはない。

一方、ミランはそれからずっと低空飛行を続けている…。

アンディ・コール  

移籍:ニューカッスル→マンチェスター・ユナイテッド

移籍金:600万ポンド(現在のレートでおよそ9.23億円)+キース・ギレスピー

1995年1月、ニューカッスルの監督を務めていたケヴィン・キーガンは決断を下した。70試合で55ゴールを決めたFWアンディ・コールをキープしないことを決めた。

コールが練習で怠けている。そうキーガンが信じ始めた時、両者の緊張は始まった。

そしてニューカッスルはマンチェスター・ユナイテッドからの600万ポンド+キース・ギレスピーというオファーを受け入れた。

ファンはその取引に答えを求め、キーガンは『サッカーの問題』と答えたが、ピッチ内ではその効果を見出すことはできなかった。

一方、マンチェスター・ユナイテッドに移籍したコールは5回のプレミアリーグ優勝を経験することになる。

ヨハン・クライフ

移籍:アヤックス→フェイエノールト

移籍金:フリー

英雄ヨハン・クライフとアヤックスの関係は有名である。しかし、それが壊れたときがあった。1983年のことだ。

バルセロナを離れた後、アメリカの数チームとレバンテを経てアヤックスへと復帰したクライフ。

36歳になった1983年夏、クラブフロントとの確執もあって退団を表明。そしてフェイエノールトと契約した。

ロッテルダムのクラブは1974年以来低迷していた。しかしクライフを獲得したことは大きな政変であった。

若きルート・フリットらとともに戦ったクライフは、フェイエに15試合無敗という好成績をもたらし、10年ぶりのタイトルに導いたのだった。

ロビン・ファン・ペルシー

移籍:アーセナル→マンチェスター・ユナイテッド

移籍金:2400万ポンド(現在のレートでおよそ36.93億円)

アーセナル独特のビジネスモデルは、あまり知られていない選手を獲得して、価値を上げて売るというものに見えることもある。

2012年、ロビン・ファン・ペルシーと代理人はアーセナルとの会談に臨み、移籍の政策や運営に関する要求を行ったという。

その哲学は変えられない。アーセナルがそう答えた時、ファン・ペルシーは退団を決めた。怪我の問題を持つ29歳が2400万ポンドで売れた。それは良いビジネスにも思えた。ヴェンゲル監督はオリヴィエ・ジルーとルーカス・ポドルスキでその穴は完全に埋まると信じたはずだ。

しかし、ファン・ペルシーはマンチェスター・ユナイテッドで26ゴールを決める活躍を見せ、リーグタイトルに導く。アレックス・ファーガソンが最後に決めた『会心の獲得』だった。

ただアーセナルもトップ4だった。ヴェンゲル監督は、満足しただろう。

カルロス・テベス

移籍:マンチェスター・ユナイテッド→マンチェスター・シティ

移籍金:なし

2006年、キア・ジューラブシャン率いるメディア・スポーツ・インヴェストメンツが、テベスとマスケラーノをウェストハム・ユナイテッドに移籍させた。

残留に貢献したテベスは、2007年にマンチェスター・ユナイテッドへと2年間の期限付き移籍をする。ウェイン・ルーニーとのコンビで大活躍を見せ、多くの賞賛を集めた。

しかし、後にアレックス・ファーガソン監督との関係は崩壊。2009年にローンが終わると、テベスはマンチェスター・シティと契約する。

UAEの資本が入り始めていたシティに初のタイトル、そして初のプレミアリーグ優勝をもたらすことになった。

エンゴロ・カンテ

移籍:レスター・シティ→チェルシー

移籍金:3200万ポンド(現在のレートでおよそ49.24億円)

レスターとチェルシーは相互に嫌悪感を持っているライバルではないが、この取引にはいろいろな文脈があり、それが重要になる。

2015-16シーズンにレスター・シティで驚きのプレミアリーグ優勝をもたらしたのは彼である。このボール奪取マスターは、中盤に前例のないほどのコントロールを追加した。

一方でチェルシーはタイトルを手放してしまった後、アントニオ・コンテの下でチームを再建したかった。そこでカンテは重要なターゲットになった。

レスターはチャンピオンズリーグ出場、タイトル保持を考えるのであれば、最高の選手を維持する必要があった。

しかし、カンテがチャンピオンズリーグに出ないチェルシーへ移籍したいという願望を見せた時、打つ手はなくなっていた。そして、彼の重要性は成績によって示された。

ウィルフリード・エンディディの獲得でなんとか穴の底は塞げたが、クラウディオ・ラニエリにとってそれは遅すぎた。

ルイス・フィーゴ

移籍:バルセロナ→レアル・マドリー

移籍金:3700万ポンド(現在のレートでおよそ56.94億円)

世界を揺るがしたライバル同士の取引。最も大きな騒動になってしまったのがルイス・フィーゴである。

「金の亡者」論争、裏切り者という罵り、そして豚の頭。誰もがその話を知っている。

しかし、結局何が起こったのかと言えば、レアル・マドリーの「ギャラクティコ」時代の始まりであった。

フィーゴは2000年にバロンドールを獲得し、リーガのトロフィーも持ち上げた。チームにはジネディーヌ・ジダンも加わり、世界の歴史の中でも最も華々しいチームが生まれた。

対照的に、バルセロナは2005年までリーグタイトルから離れることに。

アシュリー・コール

移籍:アーセナル→チェルシー

移籍金:500万ポンド(現在のレートでおよそ7.69億円)+ウィリアム・ギャラス

2006年9月1日の午前中、アーセナルとチェルシーはアシュリー・コールをトレードする契約に合意した。そして、ウィリアム・ギャラスが譲渡された。プレミアリーグの歴史上最も論争を引き起こした取引が完了した時だった。

締め切り日の慌ただしい接触がドラマティックな終わりを迎えたわけだが、さらにその後アシュリー・コールが自伝を発表したことで問題は広がった。アーセナルの提示は週5万5000ポンドだった。

二つのクラブが道を違えた瞬間だった。チェルシーはアブラモヴィッチの資金により現実の力を高めていた。一方で、アーセナルは過去の存在になった。

プレミアリーグで最も優れたレフトバックになったアシュリー・コールは、チェルシーとともに勝利を達成。誰も止められない存在になった。

アーセナルにとっては、この取引は「先例」になった。アンリ、ナスリ、セスク、ファン・ペルシー。彼らは常に移籍先でトロフィーを掲げた。

ロベルト・バッジョ

移籍:ユヴェントス→ミラン

移籍金:600万ポンド(現在のレートでおよそ9.23億円)

1995年にスクデットを獲得したユヴェントス。それは、5シーズンプレーしたロベルト・バッジョにとっての頂点だった。

28歳の彼はトリノで最高の時を過ごしたが、彼の後ろには若きアレッサンドロ・デル・ピエロがいた。

彼を直接ライバルに売ることは、ユヴェントスにとっては理想的ではなかったはずだ。ファンはこの決定に抗議した。

ミランに移籍した29歳のバッジョは、もう若い頃ほどの輝きはなかったが、スクデットを助けるゴールを決めた。

少なくとも、ユヴェントスは彼をミランに放出したことを後悔したはずだ。少なくとも、デル・ピエロがチャンピオンズリーグ優勝に導いてくれるまでは。

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