半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(3)=予期しなかった母親の死

フィリピン時代の家族写真。左がお母さん(半沢家所蔵)

 逃避行で向っている方向、島の反対側からも米軍が攻めて来ている、という知らせを受けた。進路を変え、急いで逃げ場所を求めて歩いた。疲れて歩けなくなった妹は引きずられるようにして進んだ。
 雨季の最中に何千人もが通ったので道は踏みならされて泥々。爆撃により大きな穴が開いた部分には泥水が流れこみ、一目では穴があることが判らなくなっていた。
 しばらく歩いていると、道の脇にあった穴に母が落ち、胸の辺りまで浸かってしまった。兄弟で腕を掴み引っ張るが、子供の力ではなにもできない。道を行く群集に助けを求めたが、誰もこちらを見ようともせず通り過ぎた。母は体を引き上げようともがくが、泥を掴むばかりだった。
 そんな時、群衆の中にいた日本兵の団体から若い兵が一人飛び出し、母を引っ張り上げた。その兵はすぐに戻ったが、上司らしき兵から怒鳴られていた。
 その後も泥だらけの道を、どこをどう歩いたかもわからずに逃げた。休憩のために入った原住民の小屋で、途中まで一緒に逃げていた高橋家と再会した。
 母は前に小屋に入った日本人が置いていったらしいもみ米を見つけ「ここで腹一杯食べて死のう」と子供達に語りかけ、米を炊いた。
 次の日、小屋のそばを通りかかったおじさんが「ここでなにをしているんだ?」と話しかけてきた。おじさんは道をさらに進んだところで休憩していた。半沢さんは先に荷物を運ぶためにおじさんと一緒に休憩所まで行った。
    ◎
 休憩所までの道中、森の中で夜明かししたときのことだ。
 森の中で寝る場所を探していると、一人用の兵隊テントを見つけた。中には兵隊が一人横たわっていた。
 半沢さんとおじさんが兵隊に話しかけても反応がない。よく見ると、兵隊の頭には穴が開き、蛆虫がぎっしりと蠢いていた。兵隊は半沢さんらを縋るように見つめ、「あー、うー」と言葉にならない呻きを上げていたが、しばらくして息を引き取った。友三郎さんはおじさんと一緒に弔うつもりで遺体に土をかけた。
 寝場所を見つけ就寝しようとしたとき、半沢さんは急に胸騒ぎを憶え母親の元に行きたくなった。「今すぐ戻らなければいけない」という想いで寝付けず、おじさんに相談し家族が泊まっている小屋に戻った。
 小高い丘の上の小屋付近が爆撃された跡が見えた。すっかり暗くなった頃、半沢さんは小屋に着いた。中に母親が横たわっていたが、もう意識がなかった。母親の太ももの肉が捲れ骨が見えていた。大量の血が流れている。
 高橋さんによると、小屋の前で5~6人の日本兵が徘徊しており、そこに砲弾が飛んできた。母親は千四郎に授乳していたそうだ。砲弾で飛んだ破片が母の太ももを抉った。
 助かった兵隊の1人が母の傷の止血を試みたが、動脈が切れておりどうにもできなかったそうだ。
 飛んだ破片で千四郎の足の指が一本取れていた。壁に刺さった破片に千四郎の指がぶら下がっていた。(つづく、國分雪月記者)

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