中日入りの松坂 故星野仙一氏も背負った「20」は「僕が着けるべきではない」

中日への入団が決まった松坂大輔【写真:荒川祐史】

歴代のエースが背負った20番は「ドラゴンズの中から相応しいピッチャーが出てくるべき」

 前ソフトバンクの松坂大輔投手の中日への入団が23日、決まった。この日ナゴヤ球場の室内練習場で非公開の入団テストが実施。西山和夫球団代表や森繁和監督ら首脳陣の前で、松坂はブルペンでの投球練習を披露。見事合格となり、テスト終了後に正式に契約を結んだ。

 報道陣約100人、ナゴヤ球場の周囲には“松坂見たさ”のファン約50人が室内練習場と寮のある敷地内の様子を伺う中で、晴れて「中日の松坂大輔」が誕生した。テスト終了後の会見で「まずは第1段階というか、ホッとしています。今が100パーセントではないですけど、十分に投げられますというのは伝わったかなと思います」と語った右腕。これまでは「18」が代名詞だった背番号は「99」に決まった。

「背番号は本人の希望の番号をあげました。苦しんで苦しんでいるんですから、99ですよ。色んな番号をだしましたけど、それを本人が選んだということ」。松坂の会見に先立ち、報道陣の取材に応じた森繁和監督は背番号99となった経緯を明らかにした。

 なぜ、松坂は「99」に行き着いたのか。

 まず大前提として、中日の背番号18は将来のエース候補である鈴木翔太投手が背負っている。そういった状況でもあり、空き番号の中から候補が出されたのだが、実は、松坂の「頭にあった」番号があったという。

複数の候補の中から99を選び「足したら18になりますし、何か意味があるんじゃないかと」

 それが、中日のエース背番号である「20」だった。直近では、昨季限りで戦力外となった野村亮介投手が背負っていた番号だが、今季は空き番号に。だが、1949年から杉下茂氏が背負い、その後、権藤博氏や小松辰雄氏、宣銅烈氏(現韓国代表監督)、川崎憲次郎氏、中田賢一(現ソフトバンク)も着けていた。そして1971年からの12年間、この番号を背負っていたのが、1月4日にこの世を去った星野仙一氏だった。

「個人的には若い番号の方がいいとは思っていたんですけど、20番というのも頭にはありました。けれど、それは今の僕が着けるべきではないと思いました。ドラゴンズの中で相応しいピッチャーが出てくるべきだと。そしたら残ったのが99でした。ベタですけど、足したら18になりますし、99という数字に何か意味があるんじゃないかと思って99にしました」

 このように99を選んだワケを説明した松坂。中日ドラゴンズにとって、偉大な先人たちが背負ってきた20番。「日本に戻ってきて3年間まともに投げていないので、あまり大きなことは言えない」と何度も繰り返し、「99」からリスタートを切ることにした。

「いろんな人に恩返しするためにも、1軍のマウンドに立つことを目標に、感謝の気持ちを持ってマウンドに上がれたらいいなと思います。大した力になれないかもしれないですけど、チームが少しでも上にいけるように、しっかりやりたい。ホークスにいるときも、ほとんどリハビリしていましたけど、球場で声をかけていただいて、その声に支えられて『必ず復帰したい』と思いながらやっていました。ホークスの時はそれが叶わなかったですけど、場所は変わりましたけど、ホークスのファンの人に対する思いは変わらないので、そういう人たちのためにも自分はしっかりやっていきたいと思います」

 ソフトバンクでの3年間は、1軍登板わずか1試合に終わり、ホークスファンへの申し訳なさ、贖罪の思いは強い。新天地で、復活への機会をもらった松坂。「99」を背負い、まずは1軍のマウンドへと上がることを目指していく。

(Full-Count編集部)

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