森監督が見せた松坂への親心「そういう気持ちにさせた何かがアイツにはある」

中日への入団が決まった松坂大輔【写真:荒川祐史】

中日・森監督が語った松坂への思い「道を私が作ってもいいのかな」

 中日への入団が決まった松坂大輔投手。3年間在籍したソフトバンクを退団して現役続行を模索する道を選び、他球団からの声がかかるのを、トレーニングを続けながら待った。なかなか新天地が見つからぬ中で入団テストという形で“救いの手”を差し伸べたのが、中日ドラゴンズであり、松坂が西武入団時に2軍投手コーチを務めていた森繁和監督でもあった。

 ナゴヤ球場の室内練習場で非公開で行われた入団テスト。西山和夫球団代表らとともに、松坂のブルペンで投げる姿を確認した森監督は、その後すぐに行われた会見で松坂に対しての“親心”をのぞかせた。

「ソフトバンクに入ってからも、ずっと気にはしていました。いい最後を日本で、という気持ちでずっと見ていましたけど、それが納得していないで終わってしまったところがあった。それを前にいた球団が色々やったりすることもあるんでしょうけど、俺と同じように、一緒にやったことのある選手を気持ちよく、というのが松坂にもあってもいいのかなと。そういう道を私が作ってもいいのかな、と感じたのは間違いないです」

「俺と同じように」――。森監督はこう言った。駒澤大学、住友金属を経て、1978年のドラフト1位で西武に入団した森監督。1年目から先発、中継ぎでフル回転し、2年目の1980年には2桁10勝をマーク。1981年には先発として10完投3完封で14勝という成績を残し、1982年は51登板で3年連続2桁勝利となる10勝を挙げただけでなく、10セーブも記録した。1983年には抑え投手として59試合に登板し、34セーブを挙げて最優秀救援投手のタイトルを獲得している。

中日・森繁和監督【写真:荒川祐史】

自身も利き腕の手術経験、森監督「やり尽くすまでやればいい」

 西武黄金期を支えた投手だった森監督だが、怪我で苦しい思いもした1人の選手だった。1985年のオフに右腕にメスを入れ、翌1986年を棒に振っている。それでも、1987年に復帰を果たし、1988年に21試合に投げて現役を退いた。かつての自分に、松坂の姿が重なったのかもしれない。「10勝も、20勝もしろとは言いません。ただ、自分がやり尽くしていなければ、やり尽くすまでココでやってみればいい」。完全燃焼させてやりたい――。そんな思いも森監督にはあったのだろう。

「直接話したり、言葉を交わすことは少なくても、今までずっとやってきたことを見てきていますし、やってきたこともあるんで、気持ちは言わなくても、ある程度は分かっています」

 多くの言葉を松坂と交わしてきたわけではないという森監督。それでも、野球を続けたいという、右腕の気持ちが痛いほど分かったのだろう。「そういう気持ちにさせた何かがアイツにはあるんでしょうし、皆さんがこうやって集まってくれたというのも、大輔に期待や色んなものがあるから集まってくれたと思います」と言う。

「ゆっくり見させてもらいます。どういうことをしてくれるのか。楽しみにしています。結果が出せれば、1番いいですけど、我々がバックアップしながら、松坂世代、松坂世代といってその後ろ姿を追いかけてきた若い選手もいるんで、あるものを全部見せて、使って、言葉で、体で、色んな後ろ姿でウチの選手に色んなことを教えてやってほしい。それだけです」。チームに与える効果にも期待を寄せた森監督。窮地から救い出した指揮官の想いに、松坂は応えられるだろうか。

(藤浦一都 / Kazuto Fujiura)

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