松坂が背負う中日の「99」の歴史 中村紀と足取り重なる復活への道

中日への入団が決まった松坂大輔【写真:荒川祐史】

中日で初めて「99」を背負ったのは、1979年の渡辺司投手

 1月23日、ナゴヤ球場の室内練習場で非公開で行われた入団テストの末に、中日ドラゴンズへの入団が決まった松坂大輔。その松坂に中日球団が用意した背番号は「99」だった。 

 松坂が背負うこととなった中日の背番号「99」。その歴史を振り返ってみよう。 

 中日で「99」を最初につけたのは、1979年の渡部司投手。石川島播磨重工から1969年のドラフト2位で入団した右腕だ。即戦力として期待され、1年目は中日のエースナンバーの「20」をつけたが、星野仙一と背番号を交換する形で2年目は「22」になった。2年目は17試合に投げ、3勝止まりに終わると、その後は「49」「57」と変わり、79年に「99」となった。だが、1977年以降は1軍登板がなく、1980年から「99」のまま打撃投手に。落合博満の打撃パートナーを務めたことで「落合の恋人」と称された。 

 以後は、コーチが背負うことになるが、1996年に井上一樹外野手が「38」から「99」となり、久々に選手が背負うことになった。鹿児島商高から1989年のドラフト2位で中日に入った井上は入団当初は投手。1994年野手に転向したものの、1995年まで1軍出場は50試合だけ。「99」を背負った1年目は1軍出場がなかったが、1997年から徐々に開花。出場機会を増やしていき、1999年には初めて規定打席に。勝負強い打撃と外野守備でチームに貢献した選手だった。2004年に「9」に変更するが、2009年限りで引退してコーチになると再び「99」を着けた。 

中村紀は育成選手で入団し、移籍後2年で44本塁打を放った

 選手として井上の次に「99」をつけたのは、中村紀洋だ。MLBのドジャースから2006年にオリックスに復帰したが、1年で退団。2007年に春季キャンプでのテストを経て中日に。当初は育成選手としての入団で、背番号は「205」だったが、開幕前に支配下選手となり、ここで「99」をつけた。2年間で44本塁打151打点と活躍した。FA権を行使して2009年に楽天に移籍、さらに2011年に横浜に移籍したが、愛着があったようで、2球団でも背番号「99」をつけた。 

 メジャーから日本球界に復帰し、復帰球団を退団した末のテスト入団と、中村と松坂の足跡は重なるところがある。中村以後、中日の「99」は、カブレラ、ジョーダンと外国人投手の番号になり、ジョーダンが昨季限りで退団したことで空き番号となっていた。 

 選手数が少なかった昭和の時代、NPBでの背番号「99」は監督やコーチ、はたまた打撃投手やブルペン捕手といった裏方がつける背番号だった。選手数が増えるようになって、選手も背負うようになるが、順番に割り振られて着ける背番号ではなく、移籍選手や、伸び悩んでいる選手に「もう後がない」「勝負の年」というニュアンスを込めて与えることが多いイメージがある。 

 他球団で言えば、日本ハムで、大洋から移籍した若菜嘉晴が1989年に「99」を着け、ヤクルトではオリックスから移籍して2年目の高橋智が2001年に背負った。巨人では日本ハムからFA移籍した藤井秀吾が2010年から「99」だった。9と9を足した「18」は、松坂がプロ入り1年目から、MLBに移籍しても、ソフトバンクに復帰しても、メッツ時代の2年間を除いて、常にこだわり、着けていた背番号である。新たな「99」を背負い、右腕は再び輝きを放てるだろうか。

(Full-Count編集部)

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