62年前のハワイキャンプ たった1度のチャンスをものにした野村克也

野村克也の通算成績

たった一つの「ハワイの収穫」がのちの大捕手に

 1956年2月、球団初のハワイキャンプから帰国した南海ナインが伊丹空港に降り立った。ナインたちの一番後から降り立ったのは渋い顔をした鶴岡一人(当時山本姓)監督だった。

 鶴岡監督は記者団に取り囲まれた。記者から「ハワイ遠征の収穫は?」と質問が飛んだが、鶴岡監督は「ない」と一言。しばらく間をおいて「たった一つだけ、捕手の野村を見てくれ、これはうまくなった」と言った。野村とは、のちの大捕手、野村克也である。

 野村は1954年、京都・峰山高校から南海に入った。野村自身は巨人に行きたくて願書を出したが返事はなく、南海から返事が来たのでテストを受けたと語っているが、実はそうではなかった。

 野村がいた峰山高校野球部の部長は1958年夏の予選前に南海の鶴岡一人に手紙を書き、「わが校に、一人だけプロでやれそうなタマゴがいる、ぜひ見てほしい」と依頼した。鶴岡一人は富永スカウトを伴って、西京極球場で行われた甲子園の予選で峰山高校の試合を見た。野村に対する鶴岡の第一印象は「どんくさい選手やなあ」というものだった。しかしガラ(体格)がいい。面白いものもある。試合後、野球部の部長と面会した鶴岡は「とりあえずテストを受けさせてください、受けさえすれば合格させますから」と言った。

 鶴岡は言ってからやや後悔したが、約束は約束である。野村は翌年、南海ホークスの一員になった。

誘惑が多かったハワイキャンプ、「今思い出してもぞっとする」

 無名の野村克也にチャンスはなかなか回ってこなかった。それでも1年目は守備固めなどで1軍で9試合に出場したが、シーズン中に肩を痛めファームに。2年目は捕手から一塁手に転向したが、2軍暮らし。しかし2軍での打撃成績は24試合78打数25安打1本塁打7打点.321 打率リーグ2位と立派なものだった。

 野村克也にとって3年目の1956年。南海はハワイ・ホノルルでキャンプをすることになった。

 前年の日本シリーズ、巨人に3勝4敗で敗退した南海は、ケチだ、チーム強化を惜しんでいると新聞で叩かれた。カチンときた鶴岡一人は、小原オーナーに懇願してハワイキャンプをすることにしたのだ。

 海外旅行そのものが珍しい時代だけに、メンバーは厳選した。前年入団した広瀬叔功(のち殿堂入りする快速外野手)など若手の大部分は広島県、呉の2軍キャンプにまわした。

 しかしこのオフに、高橋ユニオンズに捕手の筒井敬三を譲ったこともあって、投手の球を受けるブルペン捕手が足りない。そこで、野村を連れていくことにした。

 鶴岡監督は出発前、「行けないものの身にもなってみろ。あちらでルーズにやるものは、途中からでも帰国させる」と選手に檄を飛ばした。

 しかし、キャンプは初日から腰砕けとなった。歓迎パーティーで、チームを引率した球団代表がふざけてフラダンスをしたシーンが写真に撮られ、日本のスポーツ紙にでかでかと載ったのだ。南海本社は激怒して、球団代表を帰国させた。

 選手たちも、それでタガが外れたのか、ホテルから門限破りをして遊びに出かけた。日系人が多いハワイは、誘惑が多かったのだ。南海のハワイキャンプは物見遊山と化した。

 鶴岡ははるか後になってもこの時のキャンプを「今思い出してもぞっとする」と言っている。

「この最初のチャンスを逃さなかったところに、野村の良さがあった」

 野村も先輩選手と一緒に門限を破り、鶴岡監督に叱られている。しかし野村は毎日、鶴岡監督と顔を合わせていた。野村はボールの個数を管理する担当で「今日は何個足りませんでした」と鶴岡の部屋に報告に来ていたのだ。

 実直な野村に好感を抱いた鶴岡は、ハワイチームとのオープン戦で野村を先発で起用した。そこそこ投手をリードするし、打撃もいい。そして1年間捕手をしていなかったことで、痛めた肩も回復していた。

 正捕手の松井淳は肩を痛め、精彩を欠いていた。南海はハワイ相手に10勝1敗と大勝したが後半戦は野村がマスクをかぶった。そして話は、「キャンプの収穫は野村だけ」という鶴岡監督の話へとつながる。

 シーズンが始まっても松井淳が不調だったこともあり、野村は正捕手の座を手にした。そして翌57年には30本塁打で本塁打王を獲得している。

 ハワイキャンプを張った1955年オフ、南海は中央大から穴吹義雄、立教大から大沢昌芳(のち啓二、大沢親分)、法政大から長谷川繁雄と大学きっての好打者3人を獲得、チームの大型化をはかった。しかし打線の中心にどっかと座ったのは、その誰でもなく、テスト生上がりの野村克也だったのだ。

 鶴岡一人は述懐している。

「この最初のチャンスを逃さなかったところに、野村の良さがあった。プロ野球の世界では、チャンスは2度とあるものではない。ただ1度のチャンスを逃したために消えていった有能選手が何人いたことだろう」

(Full-Count編集部)

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