【親子でスポチャンマン!!】 親子の絆で勝ち取った全国大会優勝!/Shoun Nagate

親父(私)も息子もスポーツチャンバラが大好きな「スポチャンマン」息子はスポチャンを習う前までは甘えたで運動音痴。全国大会で優勝なんて夢のまた夢。そんな息子が親父と一緒にスポチャンを習うことで日々成長してきました。親父から息子へ伝えたいことは・・・。

「スポチャンのきっかけは傷害事件とメタボ」

私がスポチャンと出会ったのは今から12年前(2006年)になります。きっかけは2004年12月に起きた出来事でした。当時の仕事はサービス業で法人の方々を集客する宴会営業をしていました。年末の繁忙期になると不規則な仕事になり夜中まで仕事をしていました。

当時は彼女(現在の妻)と付き合いはじめたばかりで仕事も充実して張りきってました。ある人からの紹介でお客さま(A氏)から15名で3次会利用したいとの予約を頂きました。ただ満室で対応できないと丁重にお断りをしました。お断りしてから1週間後の夜にお店から連絡が有り暴れている男性(A氏)がいる。

「予約したのに入室できない。」と私の名前を名指ししていると聞きました。

嫌な予感はしましたがお店へ行きました。受付の前でA氏がいました。結婚式の3次会で集まっていました。

A氏は「どないするねん予約とれてないやんけ~」と怒鳴ってきました。

A氏には1週間前に連絡をして納得していたのにも関わらず私の頬に顔を近づけて脅してきました。こちらも丁重にお断りをしたのですがその場で修羅場になってはいけないと思い少し後ろに椅子とテーブルがあったのでそこに座って頂こうと思いました。

そして後ろに下がった瞬間、A氏から私の左顎にフックが一発入りました。脳震盪で倒れました。大人になってはじめて殴られました。変な感じでした。何が起こったのか全く記憶がなく気が付いた時は倒れてました。脳震盪のせいか立って歩くと何か酔っぱらったように千鳥足でした。

A氏はまわりの友人から押さえられてました。

A氏の友人の新郎新婦から「警察を呼ぶのは止めてください」と涙を流して言われました。

私は脳震盪で理解ができませんでしたが既にスタッフが警察を呼んでました。新郎新婦には幸せな一日を台無しにし、申し訳ないな~と思いました。ただA氏のことは全く理解できませんでした。その後、救急車で病院へ行き、医者から頭には異常がないことを告げられました。そのまま警察官に連れられ警察署へいきました。警察署では事情を説明しました。

そしてA氏は傷害容疑で逮捕されました。警察署で説明後は既に夜が明けてました。頬はズキズキしながらも長い一日を感じました。この経験から自分を守れる術はないか・・・と考えるようになりました。

それからは仕事に没頭し頭の片隅には「守れる術とは?」を感じつつも忙しくて何かを習う気持ちにはなりませんでした。

そして1年が立ち彼女(現在の妻)とめでたく結婚をしました。結婚後は幸せ太りなのか腹がでてきてヤバイ状態になりました。たまたま社内でメタボリック改善運動の募集がありました。規定の体重まで痩せると会社の評価に繋がるという何とも良くわからない改善運動でした。メタボ予備軍の私は上司の勧めもあり恥ずかしながら参加しました。

休日にたまたま新聞の折り込みチラシを片付けていたらカルチャー教室で秋のスポチャン募集を見つけました。募集の写真を見ると勢いよく飛び込みの面をしている写真でした凄い!飛んでる・・

「これだ!」と思いました。

痩せるし護身としても役立つ。もし殴られた時に習っていたらよけきれることができたのではないかと安易にも考えました。即、入会をしようと思い迷いなく連絡をしました。

妻は笑いながら「1ヶ月で辞めるんじゃないの・・・?」。バカにされ私の心に火が付きました。

「親父(私)の振り返り」

大人になって殴られるとは想像もしていませんでした。殴られた経験とその後の激太りでスポチャンへ導かれるとは不思議な感じでした。そして当時、生まれていない息子の人生に大きく影響することも驚きでした。

「入会での出来事」

決めたら即実行の私はその日にスポチャンの練習に参加しました。よく見ると小学生10人で大人の練習生は1人だけでした。先生は剣道経験者でした。着座をしてはじまりの礼をしました。準備体操をして先生から剣の持ち方やルールを教えて頂きました。

先生から「ルールは簡単に言うと1分間のうちに相手の体のどこでも良いので先に叩けたら勝ちです。」そして先生からいきなり小学生とまわり稽古に参加してみたらと打診されました。

私は子供相手に「負けへんわ」と半笑いをしてしまいました。学生の頃は陸上競技をしていたので足の動きには自信がありました。

いざ面(防具)をつけて小太刀(全長60cm)を握りしめて稽古しました。相手の小学生に面、小手、胴、足、突きとすべて当てられました。30代の大人があまりにも疲れひざまついていました。

心配したのか小学生に「大丈夫ですか?」と言われなんとも情けない光景でした。

次の日は小学生に負けた悔しさと筋肉痛で体全体が悲鳴をあげていました。練習で筋肉痛になり、治りかけた頃ににまた練習して筋肉痛になるという日々でした。毎週1回の練習が2ヶ月続くと体も慣れてきて小学生にも少しづつ勝てるようになりました。

「出会い」

3ヶ月が経ちスポチャンが楽しくなってきた頃に指導員が変わりました。私は動揺してモチベーションが下がってしまいました。この時は指導員が変わって1ヶ月間でおもしろくなければ辞めようと思いました。後任の指導員はご夫妻でスポチャンを指導していると聞きました。

幹(みき)先生と貴(たか)先生(ご夫妻:仮名)との出会いは私のスポチャン人生を大きく飛躍することになりました。指導員が変わって1ヶ月が経ちましたが指導方法もユニークで基礎体力も重視して頂いたのでダイエット効果もでてきました。

その後、社内のメタボリック改善運動も自身の目標近く8キロまで減量することができました。私自身は良い指導員に巡りあった感じです。指導員が変わると練習生も変わりました。今までいた小学生も数人になり指導方法や以前の指導員が良かったと言う親御さんもいて寂しい気持ちになりました。カルチャー教室で半年間は大人の練習生がいないので先生との稽古となりました。ただ別れもあれば新たな出会いも有りました。少しづつ子供の練習生が増えてきました。

そして2年後(2008年)5月に、第一子(身長51.5cm、体重3312g)元気な男の赤ちゃんが生まれました。結婚後に夫婦で決めていたことがありました。息子が生まれたら妻が名前を付ける。逆に娘が生まれたら私が名前を付けることになっていました。名前は諒太(りょうた)に決まりました。

妻に名前の由来をたずねると「プロゴルファーの石川遼くんのように礼儀正しく誰からも好かれる人になってほしい!」と「りょう」を拝借したいと・・・

強く言えない私は「ふ~ん」でした。この時から私は亭主関白を失脚することになりました。(笑)

「親父の振り返り」

小学生相手に勝負して負けることは凄くショックでした。でもこの悔しさが次へのステップになりました。スポチャンの練習はダイエット効果も有り8キロ減量できたことは小学生に感謝!小学生の練習をみて息子も興味があれば一緒に稽古をしたい。親子で「スポチャンマン」を思い描いたのはこの時期からでした。

「これから本気モード」

諒が生まれてから妻の負担も増してきました。

当然、「いつまでスポチャンをやってるの?」と言う雰囲気が週末になると増してきます。

でもそこは私なりに考えて諒を抱きかかえてスポチャンの練習に参加しました。幹先生(女性)は、子供の事ですごくたよりになりました。カルチャー教室でイスを並べて諒を寝させていました。当初は剣の当たる音がする度に泣いていました。諒は慣れてくるのも早くその後はスヤスヤ寝ていました。オムツも教室で替えたりして託児所のような感じでした。子供達もお手伝いをしてくれました。先生や子供達に感謝、感謝のアットホームな教室でした。

2011年の年始明けの初稽古で幹先生と貴先生から「本気で全日本選手権大会を目指しませんか?」と言われました。

カルチャー教室の練習生で全日本選手権大会に出場した人はいませんでした。それまでに先生方からの指導で段位の資格も取得させてもらいました。8月の大阪大会で入賞しないと翌年の全日本選手権大会に出場することはできません。大阪大会で入賞経験の無い私としては大きな挑戦でした。

種目は基本動作(形)、小太刀の部(剣:全長60cm)、長剣の部(剣:全長100cm)、二刀の部(小太刀と長剣)、異種の部が有りました。先生との相談で私は異種の部の棒に軸をおいて勝負することに決めました。

異種の部はすべての剣で参加が可能となります。ほとんどの選手が楯長剣(盾と長剣:100cm)、二刀(小太刀と長剣)、槍(210cm)、棒(210cm)のどれかの剣を選んで出場します。ルールは1分間1本勝負(勝敗が決まらない場合は延長も有ります)。

目標が「全日本選手権大会に出場」と明確になったので

妻に伝えると「はい、はい」と全く関心がありませんでした。(悲) 

この時から「私は意地でも全日本選手権大会に出場してやる」と思いました。

「仲間に感謝!」

2011年は親同士の繋がりもできました。同じ教室で全日本選手権大会を目指す仲間ができました。重(しげ)さん(仮名)ご夫妻でした。重さんは子供が3人いて奥さんも私の大阪大会出場後に練習生になりました。家族全員でスポチャンをする頼もしい仲間です。

重さんも私も一緒に試合にでて入賞できない日々を過ごしてました。

「重さんどうやったら入賞できるんかな?」

尋ねると「もっと練習しろ!」と言われ・・・

私も「お前もな!」と切り返しお互い違う意味でも切磋琢磨していました。(笑)

練習も土曜日のカルチャー教室だけではなく日曜日の小学校体育館での練習にも参加。平日も仕事が早く終われば練習に通いました。幹先生には基本動作(形)を教えて頂きました。

貴先生には試合の組み立てや戦術をまわり稽古で教えて頂きました。そして体力を付ける為、早朝のグランドでランニングもしました。かなり充実した年に第2子(娘)が7月出産となりました。大阪大会の1ヶ月前に忙しい日々が続きました。

この頃の妻は少しだけスポチャンを理解してくれていたような感じでした。

ただ落ち着いてからいっしょにスポチャンをしようと打診しましたが「ムリ!」であえなく撃沈!

諒はいつも私の練習に付き添い剣で遊んだり振り回したりしていたのでなんとなく興味をもっているような感じでした。まわりの子供達が練習しているのを観て影響したのかも知れません。

諒(3歳)に「諒、スポチャンしたいんか?」と尋ねると

諒「うん」と答えてくれた。

私はすごくうれしかった。理解しているかどうかは別として楽しんでいるのは事実。8月の大阪大会は親父として負けることはできませんでした。諒の為にも親父の底力を見せてやると誓いました。

「親父の振り返り」                                             スポチャンが好きになり息子を抱えて練習に参加することができました。何よりも先生や子供達の協力があってアットホームな環境に感謝!そして重さんと切磋琢磨できる仲間が現れたことにより私のスポチャン人生は大きく飛躍することになりました。 

「8月の大阪大会」

試合前にウォーミングアップをしました。そして諒のところへ行き試合前に軽くバナナを食べました。

おにぎりを食べている諒が私に「父ちゃん、遊んでたの?」

私「スポチャンしてたよ。」

諒「ふ~ん・・・・」

諒「父ちゃん、諒はあのメダルほしいな~」メダルの方へ指をさしました。

前に座っていた選手がメダルをカバンの中に入れるのをみました。

私「・・・」私「諒、メダルとってきたるわ!」思わず言っちゃいました。

諒に言われ気合が入りました。異種の部のエントリーがはじまりました。

初戦の対戦相手が決まりました。過去に世界選手権大会の異種の部(棒)で優勝した木村選手(仮名)でした。さすがに初戦で当たるとは思いませんでした。私は棒の練習をする際は木村選手のマネからスタートしました。ビデオで何回も動きや試合の組み立てを観察していました。

貴先生からのアドバイスも頂いていました。元王者には初戦から背水の陣で望みました。頭の中で試合の組み立てをしてコート前に立ちました。コート前にて一礼をしてコート内に入りました。

コート内に入り主審から「お互いに礼」「構え胴」。

構え胴で私は対戦相手に棒を向けました。構えは横から見ると「イ」の字型のイメージになります。

主審から「はじめー」と号令をかけられました。

木村選手も気合を入れて「ほーっ」と声を出しました。

私も気合を入れる為、「おぃーっ」と言う声が自然とでました。

「イ」の字型で守りながら軽くフットワークで様子をみました。ただ長期戦にすると相手に読まれるので短期戦で勝負をつけようと思いました。少しづつ反時計まわりで動き相手との距離を確認しました。お互いの棒は全長2mあるので距離が近ければ一瞬で決まります。

木村選手は私に揺さぶりをかけてきました。棒で足打ちを軽く連打してきました。距離を確保しているので当たりはしませんでした。ただ揺さぶりながら前へくる場合もあるので注意しながら動いてました。あと3回足へ連打をしたらその瞬間に前にでて面からの廻し足打ちを決めようと思いました。3回足へ連打がきたのでおもいっきり飛び込みました。奇跡的に木村選手の足へ棒があたりました。

主審が「よーし足有り勝負有り」の号令で初戦を勝利で飾ることができました。

「親父の底力」

初戦で勝利を飾ったのは大きな自信になりました。試合会場では私が勝ったことで少しどよめきがありました。大番狂わせでした。まわりは私が勝つことを予想していませんでした。私も本音で確実に勝つ自信はありませんでした。でも木村選手から頂いたチャンスは必ず活かしてやると思いました。2回戦で勝利すると入賞ラインに入ります。どうしても勝たなければいけませんでした。

対戦相手は大学生の曽根選手(仮名)でした。対戦したことのない選手とあたりました。でも対戦してない方がおもいっきり勝負ができるので気分的には良かったと思います。相手の剣は二刀で右手に長剣、左手に小太刀を持っていました。二刀の対戦は貴先生と練習の際に徹底して稽古をしてきました。

主審のはじめと同時に曽根選手のフットワークが速くなりました。棒は二刀よりリーチがあるので曽根選手の飛び込みを注意していました。左右に揺さぶりをかけてくる曽根選手。私は曽根選手が前へ飛び込んでくるのを待っていました。予想通り飛び込んできました。私は後ろに下がりながら曽根選手の懐へ棒の長さを利用して二発突きを連打しました。

二発目の突きが懐へ入り主審が「よ~し突き有り勝負有り」の判定で勝利しました。

次の3回戦で負けても3位入賞は確定しました。この調子であれば決勝戦まで行きたいと言う欲がでてきました。3回戦の相手はミスター槍の達人、門選手でした。私よりも年上でしかも体がマラソン選手のように引き締まっている体形でした。

異種の部では必ず優勝又は入賞している方で幸運にも対戦できることがうれしかったです。槍に勝つには相手からの突きを抑えて飛び込んで打つ方法しか考えられませんでした。結果的には2回の突きは抑えることはできましたが飛び込んで打つまでの余裕もありませんでした。そして3回目で突きが私の懐に入り完敗しました。その後、門選手は異種の部で優勝しました。

コートから離れて諒のところへ行きました。

先生や教室の仲間に「おめでとう!」と言われました。

私ははじめてスポチャンを習って良かったと思いました。

まわりには照れながら「ありがとうございます!」

そして諒には銅メダルを首からかけてあげました。

諒は「さっきのメダルや~」と言って喜んでました。

私は「次は諒がメダルをとってくるねんで~」と答えました。諒はニコニコしながらうなずいてました。

「親父の振り返り」

大阪大会出場で今までにない緊張をしました。でも息子の一言で緊張もとれて気合が入りました。異種の部で3名の選手と対戦し感じたことは、大人になって興奮と感動をスポチャンで得られることに醍醐味を知りました。3位入賞は息子から頂いたような感じです。息子よ!ありがとう!

「息子との幸せ」

2011年の夏も終わり紅葉が散りかけるころに諒(3歳)はスポチャンに入会しました。少し前まではオムツをはいて教室をウロチョロしていたのに・・・今では小太刀を持って練習しています。私は諒の成長していく姿をみて何気に幸せを感じてました。この時、私は目標を決めました。来年、全日本選手権大会に出場し上位に入る。諒も3年後(6歳)の第16回全国幼稚園大会に出場へいっしょに頑張っていくことを私は決めました。

その頃から妻がちょくちょく教室へ観に来るようになりました。諒が気になっているのだと思います。妻も諒が練習でチョコチョコしているのが楽しいのでしょう。私は今まで大人の部からの練習しか参加していませんでした。でも諒が入会したことにより子供の部から参加するようになりました。息子や他の子供達と一緒に練習することが今まで以上に楽しくなりました。そして週末の半日は家族でスポチャンにどっぷり・・・と過ごすことになりました。

「息子の初試合。基本動作で初入賞」

2012年の4月に諒は幼稚園に入園しました。そして6月に諒(4歳)は初試合に出場することになりました。他の道場の懇親試合でした。諒は剣の打ち方も少しづつ良くなってきました。幼児の部(試合)は年中や年長の子供達がいるので打突(対戦)はなかなか勝てない状況でした。

私は幹先生と相談し諒には早くから基本動作(形)を教えてもらいました。たまたま幼児の部は人数が少なかったので初戦を勝てば3位入賞できる絶好のチャンスでした。3種目出場ましたが小太刀と長剣は、年長のお兄ちゃんに面を打たれ秒殺で負けました。

基本動作は「もしかしたら・・・もしかするかも!」。

レベルも横並びの状況でした。審判が号令をしてはじまりました。審判は3名、相手は小太刀で対戦したお兄ちゃん。号令に合わせて横並びで基本動作をはじめました。諒は号令に合わせて声だけは大きく出せていました。判定は2旗上がり諒の勝利でした。初勝利だったので喜びのあまり撮影していたビデオ画面がブレブレになりました。(笑)館長から生まれてはじめて表彰状とメダルをもらいました。

私は「諒、メダルもらえて良かったな~」伝えると

諒は「あのおっちゃんにもらった!」と鼻をほじりながら館長の方を指さして答えました。諒はうれしくて会場でずっ~とメダルを首にかけていました。

*基本動作とは・・・例えば空手には打突と型が有りスポーツチャンバラにも打突と型(形)が有ります。基本動作は、「気・剣・体」構える時、溢れる気迫、打ち込む時の剣の軌道、静動時の体さばき、全ての動作で表現し競う種目。

「親父の振り返り」

私は全日本選手権大会に出場、息子はスポチャンに入会し翌年6月には初試合で初入賞をしました。対戦でまだまだ体力的にも諒(4歳)は勝てない状況でした。ただ基本動作はチャンスがありました。幼稚園に入園する前にスポチャンの練習生として入会させたのは今になって良かったと思います。

「理想と現実」

8月に全日本選手権大会に出場しました。念願の出場でしたが会場が横浜なので新幹線移動。前泊し大会に望むことにしました。大会は全国から強者の集まりで異種の部(棒)は2回戦負けとなりました。帰りの新幹線では負けたことの悔しさよりも、これからのスポチャンへの取り組み方とこの経験を息子にどのように伝えていくかを真剣に考えました。

「ライバル現る」

2012年も残り僅かの頃に教室に諒と同じ年の女の子は入会してきました。名前は咲(さき)ちゃん(仮名)。練習でも負けるとすぐ泣く本当の負けず嫌いの咲ちゃんでした。咲ちゃんが入会したことにより諒のスポチャンに対する考え方も少しづつ変わってきました。

今までなら負けても何も動じない諒でしたが咲ちゃんと稽古する時は試合のように真剣に剣を振り回していました。私は咲ちゃんと諒で切磋琢磨して全国幼稚園大会を目指してほしいと思いました。

「親父の振り返り」

全日本選手権大会初出場で初入賞は強者揃いで撃沈しました。ただ息子をサポートすることでは良い収穫ができました。そして諒はライバルが出来たことでスポチャンの上達も早くなったような気がします。その後は、ライバルとしてお互いが意識するようになりました。

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「息子は右肩上がり親父は右肩下がり」

2013年になり諒(5歳)も年中になりました。体もスポチャンをしているだけあってしっかりとした体つきになってきました。私は年々、体にガタがきて肘や腰を痛めるようになってきました。この年から市大会、県大会、府大会及びその他の大会にも積極的に出場することにしました。諒が出場したら私も出場しました。

幹先生と貴先生に自宅でもできる練習を教えて頂きました。仕事で帰宅して時間があれば諒といっしょに自宅で基本動作や小太刀の打ち方、自身で考案した独自のトレーニングで練習をしました。諒はトレーニング効果も有り少しづつ大会で上位に入るようになりました。

この頃になると妻も娘を連れて家族でいっしょに大会へいくようになりました。いつしか妻が私と諒の監督になってました。諒は入賞することが増え逆に私は平凡な感じで入賞にもたどり着けない状況でした。

諒は妻にメダルを持っていくと「良かったね~」満面の笑みで頭をなでなでされていました。

妻が私に「どうやったん?」と聞いてきました。私は「あかんかったわ!」と言うと

妻「諒に教えることできひんやん!父ちゃんの試合であそこから打つのはありえへんわ!もっと努力せなあかんわ~」と釘を刺されました。

ここまで妻がスポチャンにのめり込むとは思いませんでした。嬉しさ半分、悲しさ半分のなんともモヤモヤした気分でした。

この年、私は何とか12月の奈良県大会で4人に勝ち抜き、有段の部(長剣)3位入賞するのがやっとでした。諒は幼児の部で優勝1回、準優勝1回、3位入賞2回と私以上にメダルを取ってました。

ある日、諒が自宅で「父ちゃんなんでメダルとれないの?」聞かれ苦しい言い逃れをしてしまいました。

私「父ちゃんな~腰と肘に爆弾を抱えてあかんねん!」

諒「爆弾?」

私「痛い痛いねん!諒が父ちゃんのぶんまでメダルとってきてほしいねん。」背後から妻の鋭い言葉のナイフが私の心を突き刺しました。

妻「父ちゃんの言い訳~ありえへん!」と言われ諒に鼻で笑われました。父ちゃんの失言の年でもありました。

「幼年の部、最後の年」

2014年、私がスポチャンをして8年目に入りました。よくここまで継続できたな~と思いました。そして親子で目標にしていた全国幼稚園大会がこの年の12月にあります。全国幼稚園大会に出場するには11月23日の大阪少年少女大会で3位以上入賞しないと出場できません。1回しかない大会です。去年から諒もライバルの咲ちゃんと互角の試合をしています。お互い切磋琢磨していていい感じでした。

私は昨年、言い訳したことが現実となり腰の爆弾が爆発しました。練習中に腰を変な方向へひねり痛めました。仕事をしていてもまわりが気をつかうぐらいひどい状況でした。あまりの痛さに早退し知り合いの整骨院へ直行しました。先生からこれ以上練習すると日常でも支障をきたすので当分は様子をみて止めてた方が良いと言われました。私は腰がよくなるまで諒のサポートに徹することに決めました。

諒の体格も年中の時より一回り大きく成長しました。年長になると他の年長の子供達よりも力がつきはじめ小太刀や長剣でも一撃で勝つことができるようになりました。一振りで勝てるなんて理想の展開でした。逆に俊敏性が無いので一長一短です。

諒は勢いよく4月神戸市選手権大会で小太刀、長剣、サバイバル(コート内に選手が集合し小太刀で生き残った者が優勝)総合優勝、5月枚方市選手権大会小太刀3位入賞、滋賀県選手権大会小太刀3位入賞、長剣優勝、7月兵庫県選手権大会基本動作優勝、長剣3位入賞、サバイバル2位入賞、・・・ここまで上位に入ると当然、諒の弱点も研究されて徐々に上位に入るのも難しくなってきました。

「親父の振り返り」

息子(5歳)になって徐々に試合で入賞するようになりました。右肩上がりの息子と右肩下がりの私。妻が我が家の監督として試合後に鋭く指摘します。嬉しさ半分、悲しさ半分で息子(6歳)の挑戦の年となりました。この後、勝つ為に壮絶な特訓が待っているとは全く想像もしていませんでした。

「強化練習」

ある日、幹先生から尋ねられました。

「諒に全国幼稚園大会に出場する事を本気でチャレンジさせたいですか?」という内容でした。

私はその為に3歳からスポーツチャンバラを習ってきたのでお願いしました。

そして幹先生から確認された事は「強化練習は凄く厳しく接する為、諒は泣き出すかもしれません。。。了承して頂けますか?」と言う内容でした。

ここで断念すると私も諒も後々後悔するので了承しました。そして9月から強化練習がスタートしました。11月23日までの約3ヶ月間、想像以上に過酷な練習内容がまっていました。

とにかく私と妻はできる限りのサポートしようと思いました。毎週4~5回の練習で1回の練習が2~3時間でした。妻も仕事が終わってから娘をお婆ちゃんに預けました。妻は諒を自転車に乗せて片道30分かかって教室へ通ってました。私は帰宅してから諒に基本動作は「気・剣・体」が重要であること、打突は小太刀、長剣の使い方を指導していました。

随時、幹先生からの課題を聞いていました。幹先生の指導で練習内容を共有しながら自宅でも練習を組み立てていきました。諒の体は日増しに負荷がかかりました。足裏や右手に豆ができ、潰れてはまた豆ができる状態でした。

妻が諒を自転車に乗せて強化練習に向かっている途中、

諒が「お母ちゃ~ん、何でここまで練習せなあかんのん?」妻は自転車を止めてました。

涙を拭いて「諒、もうすぐ終わるから頑張って・・・」としか言えなかった。

後で聞くと妻も諒と同じ気持ちだったそうです。咲ちゃんも諒と同じく負荷がかかっていました。強化練習が終わっても自宅で練習していたので夜に諒の気合の入った声が響き近所でも有名になってました。大阪少年少女大会の前日に

幹先生が諒の基本動作は「幼稚園児にない豪快さがあります。咲は技術的に見せ方がうまい。諒と咲を合わせると全国幼稚園大会も優勝するんだけどね」

そして「大阪少年少女大会はどちらが勝ってもおかしくない。」とも言われました。

「運命の日」

11月23日、大阪少年少女大会の当日に自宅前で

私は諒の右手を軽く握り「諒、今日はいつも通りやれば勝てるから」と励ましました。

諒は「わかった。絶対勝つから・・・」

右手はテーピングをまいている痛々しい状況でした。

諒の絶対に勝つ気持ちが伝わってきました。

そして会場では幼児の部でエントリーが40名いました。いつもの試合の倍の出場数で驚きました。種目は基本動作、小太刀、長剣の3種目で勝負することになります。各種目共に4人と対戦し勝ち抜いていかないと決勝まで進むことはできません。そして各種目のいずれかで入賞しないと大阪代表として全国幼稚園大会に出場はできません。諒は帯を結びながら気合十分でした。

最初の種目は基本動作でした。エントリーが多いのでトーナメント戦で2コートに分かれて対戦していきます。私も妻も咲ちゃんのお父さんお母さんも、二人が同じコートで当たらない事を願ってました。運よく咲ちゃんと諒とは別コートになりました。うまくいけば決勝戦で当たることになります。コートには審判が3名並んで基本動作の判定をします。右手に赤旗、左手に白旗を持っています。諒は審判から右側の位置に並んでいます。赤旗が2旗以上上がれば諒の勝ちです。

諒は初戦と2回戦、3回戦共にストレート勝ちとなりました。4回戦は以前に諒が基本動作で完敗した。田中選手(仮名)です。諒がミスさえしなければ勝てる相手です。諒が基本動作の位置に付くと目付きが変わりました。小太刀の剣を構えた瞬間に勝敗が決まった感じでした。

諒は決勝戦で咲ちゃんと対戦することになりました。咲ちゃんは別コートでストレートで勝ち進んできました。対戦相手としては最後まで残る相手だと思っていました。会場では親御さん達がコートに集まりどちらが優勝するのか凝視していました。決勝戦は審判が7名になります。審判から右側が諒、左側が咲ちゃん。

審判から号令が掛けられました。「気を付けー」瞬間に諒も目付きが変わりました。

審判「礼ー」

諒「お願いしますーっ!」

審判「構え刀ー」「面を打てー」

諒は大きな声で「めんーっ!」

審判「小手を打てー」

諒「こてーっ!」

審判「右から胴を打てー」

諒「どぉーっ!」

審判「左から足を打てー」

諒「あしぃーっ!」

審判「突けー」

諒「つきーっ!」

審判「元の位置」「おさめとう」「礼っ」

諒「ありがとうございました。」

審判員「判定」

で7名の審判員の旗が一同に上がりました。緊張の一瞬でした。

結果は4対3で惜しくも諒の負けとなり準優勝が確定しました。諒も気の抜けた顔になり私と妻のところへきました。我慢していた顔がほどけて涙がいっぱいあふれました。

私は「諒、今の実力はここまでなんや。よう頑張った。」

諒「父ちゃん、あんだけ練習したのになんでなん?」言い返す言葉がでませんでした。

その後、小太刀は初戦負け、長剣の部は2回戦負けと今までになかった諒のメンタルの弱さを痛感しました。

「親父の振り返り」                                            強化練習がはじまりこの時期から家族はスポチャンの楽しさを忘れて全国幼稚園大会への生き残りをかけた戦いがはじまりました。今でも後悔することがあります。息子が強化練習で「何でここまで練習をせなあかんのん?」、大阪少年少女大会試合後の「あんだけ練習したのになんでなん?」でした。もっと親としてサポートができてたのではないか?もっと、もっと息子の気持ちをくむことができたのではないのか?と自問自答することがあります。この頃は楽しみより苦しみの方が勝ってたと思います。

「苦悩」

大会後に幹先生は「今回の大会で諒も咲ももてる力をすべて出し切ったと思います。ただ酷な話になりますが全国幼稚園大会の上位に入るには基本動作、小太刀、長剣共に残り期間で今まで以上の練習をしないと現状では生き残ることはできません。」

私は幹先生から聞かされたことで諒のモチベーションを上げるにはどうすれば良いかで悩みました。幹先生からは3日以内に次の練習の回答を頂きたいと伝えられました。

妻からは「幼い諒の辛いところをこれ以上みたくない」と言われました。妻が言っていることも理解はしていました。

「限界への挑戦」

なかなか諒に伝えることができなかった。試合後はスポチャンの話は一切しなかった。期限の3日目に諒へ話をした。ここで諒が練習や試合にでたくないと言えば幹先生に大阪代表のワッペンを返すつもりでした。私はこの先、スポチャンをどうするかを諒に尋ねた。

諒「父ちゃん!誰にも負けたくないねん。勝ちたいねん。」と言われ諒の素直な気持ちに私と妻も涙が出そうになりました。幹先生には家族の想いと諒の気持ちをすべて伝えました。

幹先生も気持ちがON状態になり「絶対勝たせてあげます!諒も咲も絶対!優勝や入賞させます。」と言い切りました。幹先生と出会ってこんなに力強い言葉を頂いたのははじめてでした。

これまで以上に幹先生のスポーツチャンバラに対する情熱に火が付きました。私も過去に諒が対戦した相手のビデオチェックをしました。幹先生から諒の基本動作や打突(小太刀・長剣)の課題を教えて頂いたところを入念に諒と確認をしました。妻はこれまで以上に諒を教室へ週6日の送り迎えをしていました。

妻の負担を少しでも減らす為、私も早く帰宅した際は迎えにいきました。練習は夜中遅くになることもありました。全国幼稚園大会が近づくにつれてよりハードな生活になっていきました。諒の課題となっていた基本動作の剣のブレ、立ち位置や歩幅、対戦での2発目、3発目の連打とガードが改善されました。大会の2日前に練習を無事終えることができました。

練習後に諒と咲ちゃんは幹先生から「よくここまで頑張ってきましたね。先生は自信を持って全国幼稚園大会へ送ることができます。だから諒も咲も自信をもって全国幼稚園大会へ挑戦してください。」

子供達も気が楽になって笑顔で「はいっ!」と答えてました。

「親父の振り返り」                                             試合終了後、私は息子のメンタルを気にしていました。すべてを出し尽くした状態でもう一度、更なる練習に息子は耐えていけるのか?疑問に感じていました。息子の素直な言葉で「誰にも負けたくないねん。勝ちたいねん。」が家族一丸になった瞬間でもありました。息子の想いを聞けたことで幹先生も家族も迷いがなくなりました。

「全国幼稚園大会前日」

全国幼稚園大会は神奈川県で開催される為、前日の夜から車で出発し家族4人で大阪をあとにしました。途中、高速道路の由比海岸付近で走行中に流れ星を発見しました。何回も流れ星が流れたので「諒!流れ星や~」諒も窓越しにへばり付いて空をみていました。諒「ほんまに~綺麗やな~」私「諒、なんかええことあるで~」私も流れ星をみて気分上々になりました。そして海老名サービスエリアで仮眠をしてから会場へ向かいました。

「第16回全国幼稚園選手権大会」

12月13日(日)各都道府県から勝ち抜いてきた幼稚園児が一同に会場へ集まりました。基本動作、小太刀、長剣の3種目で勝敗を決めていきます。各種目共にトーナメント戦でこの試合も5人勝ち抜くと優勝となります。幹先生も会場にきて諒と咲を見守っていました。幹先生も私も基本動作の勝利が小太刀、長剣の勝敗にも影響すると思っていました。

基本動作は確実に抑えておかないといけない種目でした。基本動作のエントリーがはじまり諒と咲は緊張しながらコートにむかいました。諒は順調に初戦から豪快な基本動作で勝ち抜いていき準決勝までたどりつくことができました。

準決勝で咲ちゃんと大阪少年少女大会以来の対戦となります。お互い苦しい強化練習を耐えてきた仲間です。準決勝で対戦がわかると子供ながらお互い目を合わせなくなりました。私はこの試合が一番の勝負どころだと思いました。どちらが決勝に進んでもおかしくはありませんでした。準決勝は審判が5名になりました。審判が合図をした瞬間からお互いの顔つきが鬼の形相に変わりました。

審判の号令でお互い学んだ基本動作をすべて出し切りました。審判の「判定」で旗がわかれました。3対2で諒がこの試合は何とか勝つことができました。私と妻は試合会場から離れていく咲ちゃんの姿を複雑な気持ちでみていました。親としては大阪少年少女大会と同じく決勝で対戦してほしかった。諒には咲ちゃんのぶんまで頑張って優勝を目指してほしいと思いました。

そして決勝戦は審判の合図と共に対戦相手と並びました。審判も一列に並び、各都道府県で選ばれた9名の審判員が判定をします。私はこの光景を見た時に、諒が生まれてからこの日までの事を思い出しました。甘えん坊で運動音痴だった諒がここまでよく耐えてスポチャンをしてきたな・・・と。そんな諒を誇りに思いました。40代の親父(私)は涙腺も弱くなり涙がポロポロと落ちていきました。

その姿をまわりにみられたくないのでハンカチで必死に隠していました。基本動作がはじまりました。豪快な小太刀の振りと動じない心は「気・剣・体」が一致した瞬間でした。審判が判定と合図し9名の審判が一同に旗を上げました。審判側から左側にいる諒へ白旗がすべて上がりました。

歓喜の瞬間に私は大声で「よっしゃーっ!」と叫んでいました。

諒も終わって気が緩んでほっこりした感じでした。次の小太刀の部は惜しくも入賞は逃しましたが長剣の部は持ち前の負けん気で巻き返し3位入賞を果たしました。

「親父の振り返り」                                              息子が全国幼稚園大会の基本動作の部(小太刀)で優勝した事は信じられない状況でした。なんせ甘えたで運動音痴の息子がここまで変わるとは、まわりもビックリしていました。私は息子が優勝した事はとても嬉しかったのです。そして何よりも人一倍努力をし勝ち取ったこと。そして幼い頃に親父ができなかったことを諒は自らの力で「自信」を付けることができました。私は息子を心から称賛したいです。

「その後」

諒は翌年、小学1年生になり2年連続大阪代表として全国少年少女大会(小学生~高校生までの大会)に出場し基本動作(級別)で3位入賞。そして夢の世界選手権大会に出場を果たしました。諒の全国幼稚園大会で応援していた娘はお兄ちゃんの姿を見て・・・現在、大阪代表で優勝選手となり2018年2月第19回全国幼稚園選手権大会に出場します。これからも親子の絆でスポーツチャンバラの物語は続いていきます。

著者:Shoun Nagate (from STORYS.JP)

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