「政治五輪」の開幕

 体育ではなくスポーツを。日本サッカー協会の元会長で、1年前に85歳で亡くなった岡野俊一郎さんには持論があったという。体育は明治初期、兵を育てようと教育に組み込まれた。そこへいくとスポーツは遊びだ、いそしむべきはスポーツに限る、と▲「戦後の何もない時代を見た僕にとって、1964年の東京五輪は世界平和を肌で感じる大会だった」とも語っている。胸躍る、輝かしいもの。戦争から遠いもの、遠くあるべきもの。「遊び」の含む意味だろう▲80年モスクワ五輪は米国も日本も「西側」はそろってボイコットした。あらがえなかったのを悔やみ、日本オリンピック委員会の独立に動いたという。痛恨事の傷はどんなに深かったろう。「スポーツが政治や外交と無関係なわけがない」と言い切った▲「政治五輪」の別称を伴って韓国・平昌五輪が開幕した。やおら参加を宣言して話題をさらい、対話を求める韓国を抱きかかえ、米国や日本と切り離す腹づもりだろう-と、北朝鮮に疑いの目が向けられながら▲岡野さんの言葉を借りれば、五輪も多かれ少なかれ政治の色を帯びるものだが、悲しいかな、今大会はその極みかもしれない▲それでも目は、つい競技に向く。胸躍る「遊び」と、「北」の危ない火遊びと。どうやら目移りの激しい五輪になる。

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