幻の本塁打「よく覚えてる」 NPB初現役メジャーリーガーが秘める日本愛(上)

インタビューに応じたジム・マーシャル氏【写真:盆子原浩二】

元中日ジム・マーシャル氏へ単独インタ、今も秘める日本への熱い思い

「日本プロ野球初の現役メジャーリーガー」として知られるジム・マーシャル氏が、Full-Countの独占インタビューに応じた。1950年にプロ入りし、オリオールズ、カブス、ジャイアンツ、メッツ、パイレーツの5球団で内野手としてメジャーキャリアを積んだ同氏は、1963年に中日に移籍。3年間で通算408試合に出場し、打率.268、78本塁打、252打点の好成績を残した。

 引退後はカブス、アスレチックスで監督を務め、その後、中日に1軍総合コーチとして復帰。アスレチックスではリッキー・ヘンダーソンをメジャーデビューさせたことでも知られている。86歳となった今も“日本愛“を持ち続ける同氏は、自身のキャリア、そして日本への思いを語ってくれた。今回は前篇。(聞き手・盆子原浩二)

――イリノイ州で生まれてカリフォルニアで育ち。大学からメジャーに入ったとのことですが、野球がやはり1番得意だったのですか?

「1番得意だったのはバスケットボール。UCLAに奨学金をオファーされたくらいだ。有名なジョン・ウドゥンという監督もいたが、やはり野球が好きだったね。そこからロングビーチステート大に少し行ったが、コンプトンジュ二アカレッジが印象深いね」

――野球漬けの学生生活でしたか?

「そうだったね。その時代は打撃練習も友人を見つけ、投げてもらい、打ち、その後は球を全て拾いに行かなければならなかった。1日の半分は野球だったよ」

――打撃はもちろんのこと、守備もとても評価が高かったそうですね。

「アマチュア時代は、壁に球を投げては受け、投げては受けを繰り返したのもだよ。子供の頃から守備練習ばかりしていたね」

――アルトゥーベ(アストロズ)や他の有名選手も同じ壁にボールを投げて練習をしていたとのことですが。

「本当かい? 実際、僕も王貞治さんに守備をコーチしたこともある。その当時の川上(哲治)監督から、王さんに守備を教えるようにと依頼された。打撃を教えたがったがね(笑)。彼はとても素晴らしい一塁手になった」

仲間に恵まれた日本時代、「江藤は大親友の1人」

――アメリカでのプロ生活では様々なチームに移籍を繰り返したが?

「その当時、メジャーのチームは16チームしかなく、私と同じポジションに殿堂入り選手がいたことが3回あった。ギル・ホッジス、オーランド・サペダ、そしてウィリー・マッコビーの3人だ(※ホッジス氏は殿堂入りせず。その選手たち競争すると、まあプレーの時間が限られるよ(笑)。毎日試合に出たかったことが日本へ行った1つの理由だったんだよ」

――日本へ推薦してくれた人は?

「中日新聞で働くゼネラルマネージャーの高田さんという方が紹介してくれた。権藤さんには妹がおり、サンフランシスコに住んでいた。日本の話を聞いたよ。実際、ジャイアンツのメンバーとして1960年に日本へ行ったこともあったからね。とても興味を持った。ただし、トレードがあるまではチャンスがなかった。メッツからパイレーツにトレードになり、そこで日本へ行く許可を得たんだ」

――ここに1963年の開幕戦のメンバーを書いて来ました。(1番中堅・中利夫、2番左翼・会田豊彦、3番一塁・マーシャル、4番捕手・江藤慎一、5番三塁・前田益穂、6番右翼・ニーマン、7番二塁・高木守道、8番遊撃・今津光男、9番投手・河村保彦)

「全員、今でもよく覚えているよ。高木は若くて、彼はとても気さくだった。彼がいいプレーをできなかった時、いつも励ましていた。いつも明日があると。江藤は大親友の1人だ。いつも私が寂しくならないように気にかけてくれていた。江藤、中、葛城、そして一枝。ナイスガイだった。今思い出してもいいチームメートだった。マネージャーの杉浦さんはとても厳しかった。彼とも仲良くなった。西沢(道夫)監督とは最高の時間を過ごした。彼は通訳もしてくれたしね」

メジャーで監督就任「日本でたくさんのことを学んだということ」

――1964年、オリンピックがあった年の東京後楽園球場での出来事を覚えていますか?

「覚えている、覚えている。アメリカでは『シャドーホームラン』っていうんだけどねえ。何が起きたかというと、レフトスタンドに入った球をお客さんが投げ返した。一瞬の出来事で審判は見ていなかったので二塁打になった(※実際はファンが捕球したことを妨害行為とみなし、これがなけれが外野手が捕球していたしてアウトとなった)。西沢監督はとても穏やかな人だったが、怒りをあらわにしていた。結局は二塁打で落ち着いたが、スタジアムは荒れていた。西沢監督がフィールドに戻れと言ってくれて、戻った記憶がある。」

――私は当時11歳でした。あなたは私のアイドルで、その後の記者会見を覚えていますよ。

「そうだ、私も覚えている。『アメリカではあれはホームランと呼ぶ』と言ったんだ(笑)。それ以降、どこへ行ってもその話をされたもんだよ」

――1981年、82年そして83年と、あなたは中日のコーチングスタッフにいた。大活躍をするケン・モッカを連れてきた。そして現役時代にドラゴンズで一緒にプレーしたアスプロモンテと3人が全員がアメリカに帰ってメジャー監督になっているが?

「我々は日本でたくさんのことを学んだということだ。実際、野球とベースボールは別物だが、文化の違いの中にも学ぶことは多かった。持論だが、いい監督というのはいい選手がいるチームを指揮する監督だ。(笑いながら)、残念ながら当時のカブスはそこまでではなかったかなあ」

(盆子原浩二 / Koji Bonkobara)

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