この高鳴りを僕は青春と呼ぶ/よしもと芸人

この高鳴りを僕は青春と呼ぶ/サンシャイン坂田

(写真 左)

東京。新宿。小学校を改築した、僕らの本社。真夜中の教室。街は寝静まって今日を迎える準備をする中、昨日を引きずった僕らはいつものように。100円のノートに100円のペンを持って。ウンウンと、ああでもない、こうでもないと、馬鹿みたいなくだらないことを考える。こんなコンビニは嫌だ。地味田地味男の今日の大事件は?世界で1番優しい嘘を教えて。

この仕事に就いてもうすぐ8年目。世の中に不必要で不健康でどうしようもない馬鹿みたいなアイデアを、閃きを、物語を。今日も僕は全身全霊で脳みそから絞りだす。産まれるのは大金か、はたまた0円か、それ以下か。

僕の職業は芸人。仕事内容はいたってシンプル。人を笑わせることだ。

僕が生まれたのは、九州は福岡県の、外れも外れにある山近くのこれでもかという自然に囲まれた田舎町。最寄りのコンビニまでは川を渡った隣町で、車で15分。お菓子や生活用品を売ってる近所の唯一のタバコ屋さんは夜6時には閉まるし、レジは無くておじちゃんがそろばんで計算してた。そんな時間が止まったような、娯楽も何もない町で、僕の唯一の楽しみはお笑い番組だった。

小学校から家に帰ると、真っ先に新聞のテレビ欄に飛びついて、マーカーを引いた。面白そうな番組は全部チェックして、撮れるだけの番組をビデオに撮って、1番観たいやつを生で観た。そんな中、1番好きだった芸人さんはナインティナインの岡村隆史。岡村さんは僕が芸人を目指したきっかけ、僕の人生に光を、そして素晴らしく狂わしてくれた、僕のスーパーヒーロー。

それこそ、めちゃイケからぐるナイをはじめ、色んな番組をかじりついて夢中で観てた。おもしろくてかっこよくて、そしておもしろくて。なんなんだこれ。なんなんだよと。番組を観てる時は嫌なこともなにもかも忘れて、ただただお腹を抱えて笑って。こんなに素晴らしい世界があるのかと。僕はすっかりお笑いに夢中になってた。普段は大人しく人見知りで暗い僕が、取り憑かれたように真逆のお笑い番組にすがる様は、父親も異様に思っただろう。新聞を隠されたりもしたし、テレビを禁止されたこともあった。だかそれにもめげずに、もちろん毎日そんなに番組をビデオに撮ってたら、それこそテープが追いつかなくて、お小遣いを貰ったらビデオテープを買っていた。兄ちゃんや弟が誕生日プレゼントにゲームやプラモデルをねだる中、ビデオテープ10本セットをお願いしてた僕に、親は引いてたかもんしんないな。

これは今でも内緒にしてるんだけど、撮り溜めした自分が好きな回やスペシャルがどうしても消せなくて、それでもテープが足りないって時に、母ちゃんが借りてた、いとこの姉ちゃんが応援団のチアリーダーした高校の体育祭のビデオテープの上から、めちゃ女プロレスを撮ったことがある。大犯罪だ。永久保存版って姉ちゃんが書いたラベルのテープには、スーパーバラエティが収まってる。あの当時、僕は自分が悪魔になったかのような残虐なことをしているという自責で胸が張り裂けそうだったが、それを上回るめちゃイケ愛がそこにあったのだ。死ぬまでにちゃんと懺悔したい10のこと。ごめんよ、えり姉ちゃん。おかげで僕は今もこの道に焦がれてる。

そしてもう1人の僕のスーパーヒーロー、銀杏BOYZの峯田和伸。もう1人は芸人ではなく、バンドマン。GOING STEADYの時からもちろん、僕の思春期を、淀んだ青春を肯定してくれたスーパースター。初めて中学の時に兄ちゃんから借りたアルバム、さくらの唄。お笑いばっかりで、音楽なんて当時全然聴かず分からなかった僕は、ひっくり返る程の衝撃を受けた。カッコいいとかそんなんじゃなくて、ひたすらドキドキした。なんだかよくわからない感情が湧いて、ずっとドキドキしたんだ。それを聴いてからずっと虜で、今も僕の胸の真ん中ではずっと鳴り響いてる。

小1から高3まで僕は剣道部だった。中学まではキャプテンでレギュラーだったのに、高校に入ると周りのレベルは段違いで、全然レギュラーになれなくて、いくら練習しても全然強くなれなくて、毎日泣きながら帰った。幼馴染3人で同じ小、中学校と3人で剣道頑張って県内でも有名な高校にスポーツ推薦で入ったけど、僕だけレギュラーになれなかった。ずっーと3人で一緒に自転車で通ってたけど、僕はいつからか1人で帰るようになった。僕から言いだしたんだ。仲良い友達に泣いてるダサいところを見られなくなかった。福岡の田舎の、真っ暗な田んぼ道を自転車で毎日銀杏BOYZ聴きながら帰った。街灯なんか1つもないから、自転車のライト1つ、他になんにも見えねえ。田舎の夜なんてなんにも見えねえんだよ。そんで帰って、撮り溜めした好きなお笑い番組を観て、泣きながら笑った。

後輩にもレギュラー取られて悔しくて泣いた夜。好きな娘に5回告白して、5回フラれた夜。世界でひとりぼっちだと思った夜。僕のどうしようもないくそったれな人生を、青春を、思春期を、救ってくれたのはどうしようないお笑いとロックンロールで。とても感謝している。

そして2005年、17歳。高3の夏。僕は芸人になろうと思った。でも音楽じゃなくて、お笑いを選んだのはなんでだろう。音痴だからか、手先が不器用でギターが下手だったからか、今となっちゃはっきりわかんない。わかってるのは、きっと、僕は誰よりも笑いたかったからかもしんない。

そして僕は高校卒業したら、東京にある吉本の養成所NSCに行くことにした。まずは相方候補である、僕の高校の親友で1番面白かった鶴に声をかけた。普段一緒にふざけてばかりいた僕らは、急に真面目な話をするのは照れくさくて、夜中に呼び出したものの、話出せずに近所の川べりを何時間も歩いた。これじゃキリがないなと思い、意を決して僕からコンビを組んでくれと誘った。

びっくりした。断られたのだ。頭が真っ白になった。なぜだか僕は完全にOKだろうと思い込んでたものだから、世界が急に止まったような気がした。鶴は音楽がやりたいと言った。今やってるバンドを本格的にやっていきたいと。

まさか断られると思わず、それでも1人で東京に行く勇気も無く、高校が進学校ってこともあり、僕は周りに流されるように地元福岡の大学に行った。なんだかんだ言い訳して理由づけて正当化して。でも結局、僕は勇気がなかったんだな。一人で東京で戦う勇気がなかった。

そんで僕は大学生になった。だから一年の時は毎日、毎日、なにやってんだ、なにやってんだって。やりたいことがあるのに、それをもう知ってんのに、何も出来ない何もやれない自分がもどかしくて悔しくてたまらなかったよ。

大学卒業したら芸人になるのは決めていたから、なんとか在学中に少しでも路上ライブでもいいからお笑いがしたくて、誰かコンビになってくれる人はいないかと周りの友達や知り合いに声をかけまくってた。ただ福岡はもっぱら音楽文化が強く、バンドをやる人はいても、お笑いをしようという人は誰もいなかった。ほとほと諦めていたところに、仲のいい友達が、俺の友達にとびきり明るいやつがいると紹介してくれた。話だけでも、と僕はすぐに紹介してくれと飛びついた。会う約束をこぎつけ、ゼミ塔の前で待ち合わせした。中々時間になっても来ないなと思って待ってると、ごめんごめんと、遠くから声とともに近づいてきた。茶髪に色黒の顔。上下茶色のスウェットを身にまとった男。うんこにしか見えなかった。遠くから、ごめんごめんと、等身大のうんこが僕に近づいてきた。おいおい、こいつじゃないよな。僕の相方はもっとカッコよくてお洒落で、2人で若い女の子にモテモテのスーパールーキーとしてデビュー、、、

ごめん、遅くなって!坂田くんやろ?

終わった。水に流れず、僕の目の前で詰まったうんこの名は、信清。今現在も相方として僕の隣にいる。18歳の夏、最高に下品でロマンチックに僕らは出会った。

それから僕らは時間が合えば、ライブ先も決まってないのにファミレスでネタ合わせをし、談笑し、気の合った僕らは急速に仲良くなった。しかし、初めて人にネタを書いて見せる時の恥ずかしさたるや。まるで自分の恥部を見せるかのような。顔からメラゾーマ。加速する心臓の音しか覚えてない。

そしてコンビで最初のライブは、地元の駅での路上ライブ。アマチュアでお笑いやってる知り合いに誘ってもらって。いきなりの人前でのネタ見せに僕は何回もえずいた。死ぬほど緊張した。

当時、僕らのコンビ名は「僕達」。名前も決めてなかったから、急いでライブ前に付けた名前。どーもー僕達、僕達です。っていうつかみ。なんてしょーもない。

足なんかガクガク震えて、声も上ずってて、ネタも全然だったけど、楽しかった。今でもはっきり覚えてる。ネタの最後のオチ前に僕達とお客さんの間をおじいちゃんがママチャリで横切った時、初めてドッとウケた。ただのラッキーのハプニング笑いだったが、気持ちよかった。はっきり覚えてんだよな。

そっからマックで、二人でサンシャインって名前に決めて。当時売れるコンビ名のジンクスに「ン」がつけば良いみたいなのがあり、2つもついてるから良いよなと、そんなノリで。そっから、そっからいろいろ始まったんだよな。

それから大学の在学中の間、同世代の学生たちでやっているアマチュア団体のお笑い番長というところに参加して。仲間内でネタ見せあって、近所のライブハウスに友達を呼んだりしてライブしたり。時には学園祭で余興なんかして、毎日仲間たちと部活のように過ごした。

お笑い番長が僕に与えてくれたものはとてつもなく大きく。おかげで僕の人生は楽しく、バカらしく、素晴らしく狂った。

泣いたり笑ったり、仲間の芸人達と必死こいてもがいて、ちっちゃい頃に憧れたあの人達に少しでも近づけた気がして、僕の退屈だった毎日はいつの間にかどこかに消えていったよ。

2010年4月。22歳。地元福岡の大学を卒業して、お笑い番長で共にした同い年のコンビ、サボテンの2人と、僕らは4人で一緒に上京した。NSCがある神保町駅は、古本とカレーと人情のある、芸術とグルメの街で。田舎者の僕でもすぐにこの街を好きになった。

東京NSC16期生として、僕らは入学した。当時テレビではレッドカーペットやイロモネアなど、お笑いブーム絶頂で。入学生は東京だけで1000人。入学式の会場ではわんさかと、売れようとギラギラした眼をした若者で溢れ返ってた。あの日、先輩代表で挨拶し1000人から爆笑とったGO!皆川さんのうんちょこちょこピーを僕は今でもはっきり覚えてる。

9クラスに分けられ、ネタの授業以外にも、ダンスや演技、発声などいろんな授業があった。笑ってたまるかと、睨みつける同期の前で、笑かしてやるよとネタ見せする日々。4人で住んでいた僕らは、今日の授業はこうだった、このボケがウケた、こんな面白いやつがいた、など。帰れば酒を飲んで話し、バイトさぼって大喜利してパチンコして喧嘩して。どうしようもなく馬鹿でくだらなく楽しかった日々。今でも眼を瞑れば思い出す毎日は、今もなお僕の青春を加速させる。

夏になり、授業にも慣れはじめ、どんどんクラスでも面白いやつらが目立ってきた。

そして夏の大イベント、夏合宿。2泊3日で、灼熱の中地獄のモノボケ合戦や、一発ギャグで勝たないと夕食が食べられなかったり、早朝寝起きドッキリなど。お笑い尽くしの3日間。初日の夜の企画は、全員が振りを覚えるまで寝られないエンドレスダンス。300人ぐらいで、ガールズネクストドアを朝まで永遠踊った。踊りきった時、横の話したこともないだまし絵みたいな顔した同期のやつと抱き合った。達成感と開放感でネクストドアを開きそうになった。そして2日目にメインイベントであるネタライブ。合宿のネタ見せから選ばれた20組から、ひとまず今の1番を決める。僕は優勝したすぎて、ギャグで勝って手にした夕食を食わず、食卓の下でネタを書いていた。気が狂うぐらい尖っていたと後に同期にイジられた。結果、僕らは優勝出来てそれはそれで自信になったが、帰ってから、尖り過ぎて合宿に参加しなかった面白い同期は山ほどいたし、そして、面白くないと飯が食えないという、この世界の絶対的なルールと醍醐味をこの合宿で痛感させられた。僕らはこういう世界で生きてるのだ。とてもドキドキした。

秋になり、この辺になるとネタ見せの講師から実力ごとに選抜され、選抜クラスなるものが出来てきた。当時、ライブにはこの選抜クラスに入れないと出れず、皆死に物狂いでネタを作り、試していた。噂に聞いていた他のクラスからの面白いやつも集まり、一気に熱を帯びた。

初めてライブでお客さんの前でネタをした時のこと。当時MCのジャングルポケットさんに褒められたのを今でも覚えてる。声が大きいって。嬉しかったなー。なんじゃそりゃみたいな些細な一言が極上に嬉しかったのだ。

そして、年末には東西対抗戦として、大阪に行き同期との対決ライブ。今じゃKOCを優勝してテレビでも活躍してるコロコロチキチキペッパーズの2人も別のコンビで活動していて。まるで全国大会に行くような覚悟で僕らは大阪に乗り込んだ。結果は東京の勝ちだったが、次の東京戦では大阪が勝ち、今でも大阪の同期とはいい刺激を貰いあってる。帰りの深夜バスで負けた同期の千葉ゴウが罰ゲームで実家の母ちゃんに感謝の電話をしながら股間を勃たせるという最悪の罰ゲームをした。なんかいろいろと泣きそうになった。

他にも他事務所対抗戦として、人力舎さんやケーダッシュさんなどの他事務所とも対決した。まるで他校と殴り合いのケンカをするような感じで、お互いバッチバチにやりあってた。お笑い版クローズというか、クラスでも目立てず不良にもなれなかった僕らがネタで殴りあうというのは、とても健康的な僕ららしい青春だった。

年が明け、3月の卒業公演に向けいろんな選抜クラスがより選抜されていく。僕らの卒業公演は、演技選抜のお芝居を軸に、間にネタやダンスなどが織り交ぜられたものだった。僕は主演を務め、地獄のような練習の日々だったが、学生時代部活でもずっと補欠で試合にも出られなかった僕にとっては、とても感慨深いものがあった。部活じゃないけど、毎日遅くまで練習して過ごしたあの日々は、キラキラと焦がれるような良い思い出だ。卒業公演の芝居の内容が、記憶を無くした僕が記憶を取り戻していくという話で。最後にネタを思い出した僕がネタをするというラストだったが、びっくりするぐらいスベった。涙あり笑いありの内容で、ラストお客さんからも大拍手を貰ったがその後のネタでとんでもないバッドフィナーレを迎えた。つい先日、当時の演出の先生と話したが、くそスベってたなと開口一番頂いた。地獄のようにスベって、達成感で泣こうにも、同期からはイジられるし、1つ上の先輩スタッフの西村ヒロチョさんが号泣してるし、なんだよこれと1ミリも泣けなかった。

それでも、僕は今でもそれを肴に酒のんで笑ってるし、良い思い出だ。NSCでの日々は、お笑いという怪物のようなでかいものの、欠片を少しでも学べたとても濃い1年間だった。

そしてNSCを卒業した僕らは晴れてプロとしてデビューした。お笑いの世界は優しい。全てのことを肯定してくれる。弱点が武器になる。クソみたいに否定された毎日を、不幸を、馬鹿みたいに笑い飛ばしてくれる。売れる人なんてほんの一握りだし、半端な甘っちょろいやつらは簡単にぶっとばされるこの儚くも狂った優しい世界の入り口に、僕らはようやく立った。地獄は始まったばかりだ。

プロの芸人としてスタートした僕らは、すぐに現実にぶちのめされた。人気は無いし、ネタはウケない、一緒にライブに出る兄さん方は売れてる人達はもちろん、売れてない、テレビに出てない人達も、こんなに面白いのかと。NSCの同期だけの甘っちょろい環境とはレベルが違いすぎて、僕らは井の中の蛙の卵にすらなれなかった。

それでも日々を一生懸命にもがきながら、笑いながら過ごした。

そんな中、1番ショックだったのは2年目のこと。地元から一緒に上京してきた同期サボテンの解散。福岡でもずっと一緒にお笑いやって、一緒に売れるもんだと思いこんでいたから、長木から辞めるって聞いて、目の前が真っ暗になった。無償に腹が立ったし、皆で旅行行った時のビデオなんか見て、その夜僕はわんわん泣いた。でもそんなの僕が言うことじゃない。あいつの人生だ。そんなのわかってんだよ。それでも僕は悔しくて寂しくてたまんなかったよ。初めて、売れなかったら芸人を辞めなくちゃいけないのかと意識した出来事だった。

そして5年目、28歳の夏。僕の芸人人生で1番の出来事。東京吉本の聖地、ルミネで単独をやることに決まった。決まった瞬間に、胸が高鳴って心臓の音が聴こえた。世界がグニャっと曲がった。嬉しさとプレッシャーで僕の世界は簡単にひっくり返ったよ。今思えば当時の支配人はこんな知名度も実績もないよくわかんねえ若手によくこんな大博打を打ったな。感謝のみ。すぐに信清に、いけるか?ってLINEしたら、わっしょい!って返ってきて。この夏死ぬから覚悟しよう。って送ったら、おけ!って来て。

なんやこいつ。今から戦争行くのに、おけ!ってなんだよそれ。ローラでも言わねえよ。死ぬの怖ないんかこいつ。僕なんか、すぐにプレッシャーで頭痛来て同期の薬剤師芸人から頭痛薬100錠もらったのに。まあ安心したせいか、本番まで1錠も使わなかったけど。

本物過ぎて嫌になるよ。僕はずっとこいつが羨ましい。

ルミネのキャパは500席近くあって、人気もないしメディアにも出てないし地元も福岡だから友達もいないしで、集客にも絶望的に頭を抱えた。辞めた同期達にも声かけて。来てくれるって奴はもちろん、友達もいっぱい誘うからよって奴もいて。辞めて地元で働いてる同期もわざわざ友達と来てくれるって。仕事でどうしても行けないけど、頑張れよとメールをくれた奴もいた。ありがとうだけじゃ足りない時はなんて言えばいいんだ。

結局集客問題は解決してないけど、それでもやるしかねえから、必死こいて毎日を駆け抜けて。高校ん時毎日部活で泣いてた時を思い出した。今思うと、それよりもしんどかったよ。

ルミネ単独本番当日の朝まで、ネタを作って。限界過ぎて2秒に1回ヤバいヤバい言ってた気がする。

本番当日、不安過ぎてギリギリまで台本持ってネタ合わせした。そしたら開演前、ロビーに人がいっぱいで本番押しますと舞台監督さんに言われて。楽屋でスタッフさん達にも、入ってるぞと教えてもらって。

フタ開けたら、満員のお客さんで。たまんなかったよ。嬉しかったなー。見学に来てくれた芸人さんも沢山いてくれて、どうもありがとう。どうにか90分駆け抜けた。ラストコントのオチ台詞を叫んで、暗転したら、ぶっ倒れるかと思ったけど。終わった開放感で、全身の血がドクドクと逆流して吹き出るかと思ったよ。

エンドロールが流れて、アンディモリの曲がかかって。サンシャインって曲なんだよ。タイトルが一緒だからってよりも、僕この曲が好き過ぎて、たまたま単独前に偉大な先輩芸人のマンボウやしろさん家で呑ませてもらう機会があって。好きな曲選んでくれよって言われて、アンディモリのライブDVDがあったからサンシャインをかけた。やしろさんもアンディモリ好きらしくて、ルミネってのはバンドマンの武道館と一緒だからなつって。頑張れよつって。僕は痺れて、それ思い出しながら、エンドロール終わって舞台に出たら沢山のお客さんがいて。隣で信清がギャグやって。こいつの分も稼ぐからよ!って客席の信清一家に叫んだら、信清の母ちゃんもお客さんも皆笑ってくれたから、僕はもうずっとこんなんが。ずっとこんなんが続けばいいと心から思ったよ。

終わりで福岡から見に来た母ちゃんや兄ちゃんの嫁さんと姪っ子達が楽屋まで来て。あんな田んぼばっかの田舎から、東京のど真ん中で、母ちゃんに単独ライブを見せれたってのは凄い嬉しかったよ。どうやった?って聞いたら、

あたしゃあんたのこと息子やと思ってもう見とらん。芸人やと思って見とる。笑わせてもらいました。

なんやこの粋な台詞。絶対飛行機で考えてきたやろ。やっぱあんたの血が流れてるわと思いながら、思わず笑ってしまった。

4歳の姪っ子が、僕にプレゼントがあると。1冊の手帳をくれた。ひかるくんって、覚えたばっかりの字で描かれてて。おじさん泣いちゃうよ。お前がおっきくなったらなんでも買ってやるからな。チャラい変な輩なんか来たらぶっとばすかんな。芸人なんか来たら速攻ぶち殺してやんよ。世界は愛で出来てるぞ。

そのあとルミネのスタッフさん裏方さん含め皆で大打ち上げをして。夏の終わりにサンシャインで携われて良かった。8月31日はこの年になって改めて特別な日になったよ。皆からのアンケートやTwitterなんかのコメントを読んで、酒飲んだらすぐに酔っ払った。極上の肴だよ。いつだってこの為だけにやってる気がする。いつもありがとな。もっと、もっとやるかんな。駆け抜けて駆け抜けて、全部返すかんな。あなた方の人生を、過去を、未来を肯定する何者かになれたら。強く強くゆっくりと覚悟した。

そして6年目、29歳。僕の人生はこの日を境に、全くの別のものになった。

6年付き合った彼女と別れた。福岡から東京に出て来て、養成所の頃に知り合い、向こうはまだ女子大生で。知り合いの人のイベントで僕らがネタをして、その時によく笑ってくれた娘に僕から声をかけたんだよな。今思えば、あんな芋くさい童貞野郎がよく声をかけれたもんだよ。僕の一目惚れだったかもしんないな。

僕より一個下の彼女と、それこそ6年。いろんなことがあったけど、最終的に僕らは別れてしまった。将来的なことや、結婚のこと、いろいろなことが理由で彼女に別れを告げられた時。僕は結婚しようと、次の日に区役所に行って婚姻届を持って、自宅の部屋で寝てる彼女を起こしてプロポーズした。あの時の婚姻届の重さったらなかったな。紙切れ1枚、重さ1グラムも満たない紙が、両手じゃ抱えきれないぐらい重かったよ。それでも答えはダメで、それでも諦めきれなくて、僕は1年後もう一度プロポーズするって勝手に約束した。人を笑わせるという仕事についていて、大事な人を泣かせてるということに、不甲斐なくてみじめでしょうがなかったよ。

別れた夜に、どうしようもなくなって。しょうもない29歳のたかが失恋に、真夜中に駆けつけてくれるのは、どうしようもないほどの同期の仲間達で。僕が6リットルぐらい泣いてるのを馬鹿みたいにイジって笑い飛ばしてくれた。歳いった30近いおっさん達が10人くらいで全裸ではっぱ隊を踊って。それはそれはふざけた光景で。そりゃフラれるわと泣いて僕は踊った。相方の信清も来て、全く飲めないくせに、生ビール一気飲みして、あの区役所かといって、窓際から見える区役所に、なめんじゃねえとエアセックスしだした。歌舞伎町の真ん中で、区役所と全裸でエアセックスする金髪のとっつぁん坊や。腹ちぎれるぐらい笑ってしまった。僕はあいつには頭あがんないな。本当にしんどい時に、さらっと助けてくれるのはいつもあいつだったりする。普段は馬鹿すぎてぺちゃんこにしたいぐらいムカつくんだけど、僕はお前にとても感謝したりしちゃってんだよな。

それでも、11月くらいに、久々に彼女に連絡をとったら、わたし、待ってるから。という連絡が来た。

僕はすっかり舞い上がって、なんとか、なんとか結婚出来るように、目の前の仕事や、貯金するように新しくバイトなんかも始めて、もがくにもがいた。でも、翌年の1月すぎに、彼女から、新しく彼氏が出来たと聞いた。

なんだよそれ。ふざけんなよ。

とどめを派手にもらった。僕は本当に情けない、しょうもないなと思った。そりゃそうだ、そりゃそうなんだよ。

相手のことを聞くと、人柄的にも、経済的にもそりゃそうだよ。口ばっかりで何にも結果も誠意も見せれないのなら、それはそうだよ。彼女は何にも悪くないんだぜ。それに対して、ふざけんなよって言ってる自分が情けなくてしょうがない。しょうもねえよ本当。

その夜も僕はまた同期のみんなに甘えて、馬鹿みたいに泣いてしまった。朝まで、カラオケでまた6リットルぐらいその夜を泣いて過ごした。その時の、涙と鼻水で窒息しそうになってる、いい大人が本当に気持ち悪い動画を、ついこないだの自分達のトークライブで流したら、お客さんが馬鹿みたいに笑ってくれて。救われたなぁ。アンケートに、笑っちゃいけないと思いましたが、最高でした!といっぱい声があった。僕は僕で、人生で1番泣いた夜を、みんなに爆笑されて、それを見て自分で爆笑してしまった。自分の地獄のような光景が、単純にとても面白かったのだ。こんなへんてこな仕事、なんなんだよ本当。僕はもう、当たり前に焦がれてしまってる。

小さい頃から、いつだって、どうしようもない不幸を、悲しみを、寝れない夜を肯定してくれたのは、お笑いだった。高校の時初めて告白してフラれた夜も、ごっつええ感じのDVD8時間連続で見たもんな。

それでも、だからこそ、こんな仕事に就いていて、大事な人を笑わせられなかったことが、とても悔しいのだ。1番笑わせたかった人を、笑わせられなかったことが、悔しくて不甲斐なくてしょうがない。

最後に彼女から連絡が来た時、僕は連絡を返せなかった。幸せになってな、という一言がどうしても言えなかった。僕は彼女に幸せになってほしいんじゃなくて、僕が幸せにしたかったんだ。僕が君を幸せにしたかったんだよな。

今思い出しただけでも、涙で景色がぼやけてしまう。いつかまた、もっと笑い飛ばせるように、全ての馬鹿みたいな不幸を、嫌になっちゃう夜を。僕はこの仕事に胸を焦がす。呆れるぐらい夢中なのだ。

そしてそれから約1年後。

芸人7年目、30歳の秋。10月13日。僕のスーパーヒーローの1人、峯田和信率いる銀杏BOYZの初の日本武道館。僕は銀杏好きの先輩同期達と観に行くことが出来た。楽しみで楽しみでしょうがなく、3時間前に物販並んだのに、グッズをなにも買えなくて途方に暮れたけど、はじまってみたらなんのその。一曲目、エンジェルベイビーが流れた瞬間、全ては吹っ飛んだ。追い求めて追い求めてぶちのめされてそれでも追いかけて掴もうとしてる人の声はとても美しく、僕は何回だって魂を揺らした。峯田さんが1番歌ってきた1番思い入れのある曲を歌う、と、BABY BABYが鳴った瞬間。今までの人生が想いが一瞬で走馬灯のように全身を駆け巡った。僕のどうしようもないくそったれな人生を、青春を、助けてくれた。僕のヒーローは今もこんなにもかっこ良くて、嫉妬と羨望と、同時に不甲斐ない自分に参っちゃったよ。

この日、セットリストにはあの名曲、東京は入ってなかった。当然聴けるものだろうと思ってた僕は、なんだか寂しくて寂しくて。この日僕は東京を聴きたい理由がやまほどあったのだ。

僕が6年付き合ってた彼女にプロポーズしてフラれたのはこの武道館のライブからちょうど1年前。向こうに新しく彼氏ができて、完全に僕の恋は終わってしまった。カラオケで泣きながら恋ダンスをして僕の青春は幕を閉じた。

と、そこで終わったかと思った話は、まだ続いて。なんてこったい。3月に彼女から連絡があって、いろいろとあり、僕らはよりを戻すようになった。僕はそれでもすぐに結婚は出来ない、8月のキングオブコントを待ってくれ、と。決勝行けるネタが出来た。結果を出すから待ってくれと、お願いした。それで死にものぐるいで挑んだ夏、僕らは決勝どころか準々決勝で負けてしまった。その日僕は帰りの電車で泣いて、最寄りの鳥貴族のカウンターで8時間1人で泣き明かした。人生かけるつって、準決勝どころか、その手前で負けんのかよ。他に客も全然いない夜中に、鳥貴族で1人で8時間号泣しながら1万円以上使う若者は怖くてたまらなかっただろう。金麦の大ジョッキ30杯以上飲まないと1万も超えないよ。閉店間際、掃除機持った外国人の店員さん達に囲まれることはもう一生無いだろう。

そして9月、僕はまたしても彼女に別れを告げられた。なにやってんだよ。またかよ。結婚や現実的な未来を考えて、口だけでなにも結果も誠意も見せれなかった僕に、どうにもならなかったのだろう。別れ際、僕が彼女の部屋の合鍵を返し、向こうはお揃いの部屋着のパジャマを返した。離れていく彼女の背を見て、不甲斐ない僕はどうしよもなくてパジャマや全部、品川駅のゴミ箱に投げ捨てた。

東京に来て7年、僕の東京は彼女で、彼女は東京そのもので。2人の夢は東京の空に消えて、いつのまにか星は見えなくなってた。

泣いて駅でしゃがんでたら、ホームレスのおっちゃんがゴミ箱から僕のパジャマをとって笑いながら走っていった。そんなことあんのかよ。僕と彼女の物語は終わったけど、思い出だけが今も品川で生き続けてる。品川のウォーキングデッドが2人の思い出を装備して今夜も第2章を生きている。

だから武道館の、銀杏の東京を聴きたかったのだ。銀杏の東京で、全てを綺麗さっぱり良い思い出にしたかったけど、そうはいかなかった。そうだよな。僕は僕で、僕の東京を創らなければ。そんなお笑いを、作品を、命をかけて創らねばいけんよな。

その年のクリスマスイブ。同期で芸人を辞めた、小川こうへいの結婚式があった。こうへいは僕がNSCの中でもサボテンの2人同様とても仲良く。そして面白くて優しくて誰からも愛される奴で、僕が芸人で初めて嫉妬した奴だ。彼女もいない地獄のような同期5人でハイエース借りて名古屋まで深夜高速飛ばして会いに行った。実家の呉服屋継いで、あんなにモテなかった童貞の同い年のアフロは、すっかり痩せていい男になって、こんなやつを愛してくれるような最高でステキな奥さんまで手にして。奥さんのえりちゃんはマザーテレサの生まれ変わりだろう。じゃなかったらこんないい女割に合わないよ。

結婚式、一緒に参列したほかの同期も皆笑って泣いてた。

芸人を辞めても、こんなにも愛に幸せに笑ってるなら、こいつの火花はハッピーエンドだ。みんな馬鹿みたいに笑ってた。

こうへいの母ちゃんと親父さんに、頑張ってくれよ坂田くん!と。さんさんさんにもこうへい出してくれてありがとな!と、嘘だろおい。僕らが1年目にこそこそとやってたネット番組も知ってくれてて、自分の親のように応援して貰った。嬉しいったらないよ。こんな親だもの、それはこんないい息子が育つよ。頑張り続けます、と約束した。

クリスマスに人の幸せを祈ったら、帰ったら15時間爆睡してクリスマスは終わってた。駆け込むように、家で鍋作って贅沢にエビス飲んで、結婚式の写真を肴に芋の水割りを飲んだ。気づいたらまたソファで寝落ちしてて、また日々を繰り返した。

もうすぐで、次の春が来たら僕の芸人生活は8年目を迎える。

そして僕は今日も夜な夜な、真夜中の本社で面白いことを考える。ネタを考えては披露して、考えては披露して、笑ってもらったりスベッたりを繰り返す。もちろん売れてない。金もない、夢だけがある、バイト生活の日々だ。それでも僕らは生きる。そんで本気でお笑いで人を助けたいなんて思っちゃってる。助けられると思ってる。だって僕はそうだったもの。

楽しいことばっかりなんて、あるもんか。ここは天国でも地獄でもなけりゃただの広がった三次元の建物だ。そんなの知ってるけど、甘っちょろい僕らは綺麗事ばっかり。なんだそれって冷たく僕が言うんだけど、綺麗事言うのがあんたの仕事でしょって、また僕が言うのだ。僕は僕を繰り返して、時々嫌になる。そんで少しだけ進む。そんで休んで酒飲んで吐いて愚痴を言って、笑ってまた前に進む。万歳だ。

素晴らしい仕事をしてると思ってる。それだけが唯一の自慢だ。胸はいつだって高鳴ってる。タイムマシンが出来たら17歳の僕に自信を持って言うのだ。なにも心配いらないぜ。

僕は東京を生きる。今日も明日もこれからも。ただひたすらに真っ当に、笑うように生きるのだ。

著者:よしもと芸人 (from STORYS.JP)

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