被爆の記憶伝える十字架型の記念碑 台湾医師、救護活動に奔走 諫早 家族との交流、今も

 1945年8月9日の長崎原爆の記憶を静かに伝える十字架型の記念碑が、諫早市北東部の長田地区にある。戦時中、同地区に赴任した台湾出身の医師が、長崎から運ばれた被爆者の治療に奔走。ともに救護活動に尽くした住民への思いは深く、医師が死去した後の83年、息子2人が同地区に贈ったものだ。「故父の安息地」-。記念碑に秘められた「あの日」を知る住民がいた。

 「諫早市東長田道上名ニ診療所開設ノ件許可ス」

 終戦前年の44年5月、同地区に診療所を開設したのは、康嘉音(こうかおん)医師(1914~73年)。台湾南部の屏東県出身。43年に旧長崎医科大(現在の長崎大医学部)を卒業し、同大内科に勤務。終戦前後の44~47年、無医村だった同地区と対岸の小野地区に赴き、「やす(康)さん」と親しまれた。

 長崎原爆戦災誌によると、原爆投下後の8月11~17日、被爆した約200~300人が診療所近くの肥前長田駅に救援列車で運ばれた。診療所に収容しきれず、そばの旧長田国民学校に収容、康医師が治療の中心的役割を果たした。

 「駅からけが人を戸板で運んだ」。こう証言するのは山田春男さん(87)=諫早市長田町=。当時、県立農学校(現在の県立諫早農高)1年の15歳。旧長田国民学校の運動場にある木の陰にけが人を下ろし、駅との間を何度も往復した。教室に敷かれたむしろに寝かされたけが人を、康医師や地元住民が赤チンキを水で薄めて、傷口に塗っていた。教室の壁に皮膚がこびりついていたのを、山田さんははっきり覚えている。

 山田さんのいとこは三菱兵器長崎製作所大橋工場で被爆。9日夜に帰ってきたが、約1週間後に死んだ。16歳だった。「大けがをしていた訳ではないのに、少しずつ具合が悪くなり、先生にとても世話になった」。山田さんは康医師に感謝の思いを口にする。同校では86人が死亡、引取先のない遺体は近くの無縁墓地に葬られた。

 戦後、康医師は台湾で開業した後、諫早市を数回、訪問。山田さんはトラックで小野地区に送り届けたこともある。「『昔は渡し船で小野まで往診していたのに、今は橋が架かって便利になった』と話していた」。車からさっと降りて歩いていく姿を覚えている。

 康医師が死去してから10年後の83年、長男の啓明(けいめい)さんと次男の啓聰(けいそう)さんが、記念碑を同市長田出張所に贈った。黒漆塗りの木製。縦に康医師、横に子ども6人の名前が記されていた。

 康医師が働いていた旧長崎医科大は原爆で壊滅、台湾出身の十数人も命を落とした。「長崎の原爆で死んでいるところだった。長田が私の第二のふるさと」(長崎新聞 83年4月24日付)。息子たちは父の言葉をこう代弁し、住民に感謝の思いを伝えた。

 それから35年-。記念碑は長田町公民館で保管され、山田さんのもとには毎年、次男の啓聰さんから年賀状が届く。「慕情郷愁→長崎」「今年こそは諫早へ行きたいです」-。日本語で書かれたはがきを見つめ、「やすさんは無医村だった長田の命の恩人。(啓聰さんたちと)もう一度、会ってみたい」。悲しい歴史を超え、温かい友情が小さな町で育まれている。

台湾から毎年届く年賀状を手にする山田さん=諫早市長田町
「故父の安息地」と書かれた十字架型の記念碑=諫早市、長田町公民館

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