「本当に『やーめた』って」―阪神西岡、引退を決意した大怪我から得たもの

インタビューに応じる阪神・西岡剛【写真:荒川祐史】

アキレス腱断裂で引退決意、つないだ心で向き合った自分の弱さ

 阪神・西岡剛のプロ野球人生は、怪我との戦いで紡がれてきた。2003年にドラフト1位で入団したロッテはもちろん、2011年から2季を過ごしたアメリカでも、そして2013年からプレーする阪神でも怪我がついて回った。怪我をするたび、それを乗り越え、「次の年はやったろ、見返したろ」と前に進む。だが、2016年に負った左アキレス腱断裂からの完全復帰を目指す今季、33歳ベテランは全く新たな心持ちで野球と向き合っている。

 2016年7月20日の巨人戦。同点タイムリーを放った西岡は、一塁ベース付近で転倒し、うつぶせになったまま起き上がれなかった。左アキレス腱断裂。もう野球を辞めようと思ったという。2014年には二塁の守備中に右翼を守る福留孝介と交錯して肋骨骨折などの重傷を負い、2015年には右肘屈筋挫傷で戦線離脱。「3年連続の怪我だったんで、復帰に向けてもう一度あのしんどい作業をするのがすごく嫌だったんですよ」と振り返る。

「本当に『やーめた』って完全に切れたんですよ。3年連続の怪我で、アキレス腱は復帰に1年を要するだろうと言われた。球団やファンに対して申し訳なく思ったり、僕の中でいろいろな思いがよぎって、自分から身を引いた方がキレイかなって一瞬思ったんです。

 そんな時、球団から最初に『頑張って復帰してくれ』って言われたんです。プロ野球選手である以上、求められなくなればユニホームを脱がなければならないし、プロ野球でプレーしたくてもできない人もたくさんいる。球団の言葉がうれしかったですね。そこから、野球から1回完全に切れてしまった心をつなぎました」

 心をつないで臨んだリハビリの日々は「本当に苦しかったです」という。患部が癒えたら、まずは歩行練習からスタート。プロアスリートがするべき作業ではない。歩けるようになるのか、走れるようになるのか。光が見えない中で続けるリハビリは地道で孤独な作業だ。少し光が見えてきたと思ったら、また見えなくなる。そんな状況から逃げ出さずにいられたのは、「自分と真剣に向き合うようになったから」だという。

福留との交錯も「80%くらいでポンッと捕球できていたかも」

「野球においても生活においても、自分の甘いところ全てと向き合える時間があったんですよ。野球と真剣に向き合うようになったのは、アキレス腱が切れてから。もちろん、20歳の時も21歳の時も、当時の考えの中では手を抜いたことはないし、野球を一生懸命していた。アメリカに行った時も、僕の中では一生懸命だった。でも、アキレス腱が切れた後で、21歳の時やメジャーに行った時を振り返ると『もっとこういう風にしておけばよかったな』ということがいっぱいあるんです。反省点がすごくいっぱい。

 自分のダメだったところを否定というか、自分自身でバッサリ切っていく作業が、すごく精神的にはしんどかったです。でも、そこで向き合わないと、次のステップに進めない。この作業をしたことで『こういうトレーニングをしたら、自分のここが伸びるんじゃないか』とか、気付きが生まれるようになりました」

 アキレス腱の怪我は癒えたが、その痕は今までに感じなかった体の張りという形で残った。だが、気付きを持って現状と向き合い、練習前後はもちろん、休日も体のケアや準備に多くの時間を掛けるようになったという。若い頃から気付きを持ったトレーニングや準備をし、自分の能力を伸ばせていたら、2014年に福留と交錯した“事故”も防げていたのでは、と話す。

「当時、今の気付きを持ってトレーニングをしていれば、もっとスピードが出て、3歩早く打球の落下地点に入れていたかもしれない。そうすれば、ライトを見る余裕ができたかもしれないし、もっと声を出して福留さんを制止して捕るくらいの余裕があったかもしれない。あの当時は、あのプレーが僕の中では120%くらい全力だった。でも、トレーニングをしていれば、80%くらいでポンッと捕球できていたかもしれない。そう考えています」

 後悔のない人生はない。「だからこそ、後悔を少しでも減らしていけるような行動をしていきたいなっていうのが、今の僕自身の目標ですね」。そう迷いなく言い切ると、スッキリとした表情で真っ直ぐ前を向いた。(続く)

(福谷佑介 / Yusuke Fukutani)

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