【この人にこのテーマ】〈車部品メーカーヨロズ創業70周年〉《志藤昭彦会長兼CEO》

危機を好機に変え「独立」「グローバル企業」に成長

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 自動車部品メーカーのヨロズ(本社・横浜市港北区)が4月に1948年の創業から70年を迎える。鋼板を成型した自動車の足まわり部品、サスペンションの大手メーカーへと成長してきた同社の歴史を志藤昭彦会長兼CEOに聞いた。(黒澤 広之)

――ヨロズの源流は戦前にさかのぼるそうですね。

 「私の父(志藤六郎氏)が1940年に横浜市鶴見区で志藤製作所を興したのが始まりです。42年に当時の政府が再編統合を進めるため企業整備令を出し、父の先輩だった萬さんから『萬製作所』を買収しました。この時に先輩の名を立てて社号を萬製作所に変え、戦後は平和産業として自動車の整備をやろうと48年に『萬自動車工業』(90年にヨロズへ改称)としてスタートしました」

――サスペンション部品へ進出した経緯は何だったのでしょう。

 「73年のオイルショックの時、日産自動車がロータリーエンジンを造るため工場のスペースを空けようと部品メーカーへ何か仕事を引き取れないか打診してきました。しかし当時は大変な人手不足で、どの部品メーカーも新しい仕事を引き受けるのが難しく、当社も最初は断りました」

 「しかし、ここで巡り合わせがありました。70年に当社とかねて深い関係にあった住友商事と今間製作所とで合弁会社の庄内プレス工業(山形県鶴岡市、今の庄内ヨロズ)を設立したのですが、今間製作所が73年に破たんしてしまいました。住商の依頼で庄内プレス工業と従業員を引き受けるタイミングが、日産からの依頼とちょうど重なったのです」

 「ここで父は小山工場(今のヨロズ栃木)で造っていたものを庄内へ移し、小山でサスペンション部品の生産に乗り出します。当時の我々はサスペンションの技術がありませんから、日産から現場を担える係長など6人の技術者を迎えました。そこから我々の技術力を高めてきたわけです。庄内がなければ、サスペンションへの進出はなかったでしょうね」

――その点、住商との関係は長いですね。

 「庄内プレス工業も社長は初代から3代まで住商から出ていて、その一人が後に住商の会長・社長となる伊藤正さんです。69年に当社が日産や鋼材商社の資本参加を受け入れた際は住商が10万株取得し、今も40万弱のヨロズ株を保有しています。86年に設立した米国のテネシー工場(今のYAT)や15年に設立したアラバマ工場(YAA)へも住商は出資しています」

――志藤会長は98年に社長へ就任しましたが、直後に日産が経営危機に陥りました。

 「99年に日産がルノーと提携し経営改革が始まりました。日産リバイバルプランでは購買コスト20%削減が掲げられ、3%の利益率しかなかった当社は、このままでは赤字が確実です。実際、02年3月期から2期連続で最終赤字になりました」

 「この時、当社の売上高の8割は日産向け。これが一転して日産から『自分で売り先を探しなさい』と迫られる。そこで私は、どこと組むか考えました。国内市場は伸びない、伸びるのは海外だと。当時、ヨロズの売上げは大半が国内でした。なら言語や文化は違っても組むのは海外企業がいい。ただファンドは儲からない仕事をやめろとなりかねないからノーだと。部品メーカーは細かい低採算の仕事もやっているからこそ大きな仕事も任せてもらえるという全体最適の観点が大事ですから」

 「となれば、やはり自動車メーカーを相手にする共通文化がある海外の部品メーカーがいい。ただし相手が大きすぎると飲み込まれてしまう。我々の存在感を示せるパートナーをと考えていたところ、米国のフレームメーカー、タワーオートモーティブが一緒にやろうと言って来ました」

 「しかしルノーの系列には我々と同じサスペンションメーカーのACIがあり、日産からはACIと組むよう再三言われました。そこで私は『ルノー・日産以外の外部から真水のお金を持ってくるべき』と主張し、最終的には日産もタワー社と組むことを了解してくれました」

――タワー社が日産の保有株を買い取りヨロズの筆頭株主となるわけですが、そのタワー社も倒れてしまいますね。

 「タワー社がチャプター11を申請し、ヨロズ株も売ることになります。はじめタワー社は株を担保に資金を借りようとしたら断られ、なら売ろうと思ったそうです」

 「タワー社が株を売る時は当社に優先買い取り権がありましたので、これを行使することにしました。タワー側はヨロズにそんな金はあるのかと訝しがりましたが、私がみずほ銀行に買い取り資金の融資を相談したら即日でOKです。タワー社はなぜだと首を傾げていましたが、みずほの1兆円増資で当社も5億円引き受けるといった、長年の信頼関係の賜物ですね。これで株をタワー社から買い戻し、ヨロズは独立系となりました。この時に取得した株の一部(3・36%分)は08年にJFEスチールへお願いし保有してもらっています」

――日産が資本を引き揚げてから、ヨロズはどう変わっていったのでしょう。

 「良かったのは2期連続の赤字です。誰もが危機感を持ちました。そして、ものを造る現場を強くしないといけないと。そこで私は03年4月から『トヨタ生産方式』の導入を始めました。日産でやってきた会社がトヨタかと、みんな驚きましたが、会社が変わらなければいけないというメッセージもありました。トヨタ生産方式を各工場へ展開し、04年3月期には黒字化することができました」

 「合理化も行いました。苦渋の選択で福島ヨロズは清算し、早期退職も募って多くの優秀な人材を失いました。血を流して当初予定より58億円上回る原価低減をやりきったのです」

 「現場だけでなく、マネジメント革命として財務や品質保証などあらゆる部門での機能別管理も行いました。各分野の役員が海外を含め全拠点へ機能軸を通し標準化を進める狙いです。拠点ごとにバラバラだった財務などの書式も統一し比較しやすくしました」

効率化・標準化を徹底

――その後の危機では、リーマン・ショックがありましたが、これはどう乗り切りましたか。

 「日産リバイバルプランを経験したことで、どんな危機が来ても大丈夫だという自信はありましたね。リーマン・ショックの際は一気に需要が半減する事態に直面しましたが、最大効率とミニマムコストに取り組み、米国では主にGM向けを手掛けていたミシガン工場と需要が激減していた大型車向けのミシシッピ工場の生産を止めテネシーへ集約しました。とにかく早く手を打とうと。良くなったら、またやればいいという考えです」

 「国内では2直のシフトを1直にし、パレットや治具で外注していた仕事も自前でやるようにしました。雇用調整助成金を活用し、従業員に収入の9割を保証した上で自宅待機も実施しました」

 「11年からは横浜本社にあった開発や生産技術、調達といった部門を順次、ヨロズ栃木へ移しました。これで現場とのコミュニケーションが取りやすくなり、効率は3割アップしました」

――海外展開も中国や東南アジア、ブラジルなど各国で進めました。

 「父からは日産以外へ営業に行っても売れないと言われましたが、海外では違いました。ホンダやトヨタなどに海外拠点で採用され、その実績が国内での取引にも繋がりました。欧米の自動車メーカーとも関係ができ、今では売上高、従業員数とも8割は海外です」

 「数々の海外事業を設けてきましたが、図面1枚でどこでも同じ製品を造れるよう徹底した標準化を行っています。東日本大震災の時にはリスクマネジメントの事例としても取り上げられました」

電気自動車、軽量化で対応、鉄鋼メーカーと共同開発

――鉄鋼メーカーに期待することは。

 「今は100年に一度という自動車業界の大変革期。電気自動車(EV)では電池の重さを補うための軽量化が最大のテーマになります。足まわり部品のサスペンションでは強度を確保するため鋼板の板厚は厚くなります。これを軽量化するには剛性が求められ、980メガパスカル級といった高張力鋼板に挑戦しないといけません。我々も形状をしっかり出せるよう3500トン級の大型サーボプレス機を各所で導入しますが、鉄鋼メーカーには安定供給はもちろん、これからも強度や成型性に優れた鋼材の共同開発をお願いしたいと思います」

――2年前には子息の志藤健氏が5代目となる社長に就きました。トップ交代はいつごろから考えましたか。

 「志藤社長はインド工場での操業やヨロズエンジニアリング(山形県東田川郡)の社長など経験を積み、全体の若返りを進めるためにも3年前からトップ交代を考えていました。志藤社長にとりヨロズは祖父が作った会社であり、私の経営も見てきました。父を見て私もやらなければと思いましたが、志藤社長もやはり会社を想う情熱は高いものを持っています」

次の100年に向けて

――志藤会長は日本自動車部品工業会の会長も務めています。業界の将来、そしてヨロズの次なる80年、100年に向けた課題をどう考えますか。

 「世界の自動車市場は今の9500万台から、まもなく1億台を超えるでしょう。残念ながら日本では人口減少に伴い減っていくでしょうが、世界全体では人口増と共に確実に車も増えていきます。世界経済をけん引する成長産業であることはこれからも変わりません」

 「自動車の電動化や自動運転にどう対応するか、部品メーカーが担う開発の役割はさらに増して来るでしょう。また欧米のメガサプライヤーと競合する中で、我々がどう存在感を発揮できるか問われてきます」

 「ヨロズのサスペンションはエンジン車、EVともに使われる部品です。一層の軽量化追究に向け開発を進めていくと共に、私は最後に勝者となるのは人手に頼らない会社だと思っています。どの国でも今後は採用が難しくなってきます。生産の無人化、自動化が求められるわけですが、機械同士が干渉しないよう使いこなすには相当な技術力がなければできません。当社はヨロズ大分で7~8人いたラインを1人にし、YAAやメキシコ、中国など海外の工場でも自動化ラインの導入を進めています」

 「ただし人が要らなくなるのではなく、機械をマネージする技術者は欠かせません。当社は社会貢献の一環で鶴岡高専と産学協同に取り組んでいますが、卒業後には当社に来てもらうことで地元に雇用をもたらし、我々は優秀な人材を獲得できます。こうした強みを磨きあげることで競争に打ち勝ち、新しいビジネスチャンスをものにしていきます」

聞き手から

 NKKと川崎製鉄が統合し、JFEが誕生する一因にもなった日産リバイバルプランは系列だった部品メーカーの運命も大きく変えた。ヨロズは自主独立路線で乗り越え、社業の発展を果たした数少ない一社と言える。

 志藤会長はヨロズを変革し飛躍させる契機となったことで「ゴーンさんには感謝しています」と話す。そして今、自動車業界全体が大変革期を迎える。危機を好機に変え大きくなってきたヨロズ。次なる100年へ、再びどう挑むだろうか。