福島第2原発に勤める東京電力の上野恵美子(うえの・えみこ)さん(53)は、東日本大震災の津波で父母を亡くし、福島第1原発の事故で福島県双葉町の自宅を追われた。
遺族、避難者、そして事故を起こした会社の社員という三つの立場で、この7年間ただ必死に生きてきた。
福島県浪江町で漁師の家に生まれた。高校を出て1983年に入社。
社内結婚した夫も第2原発で、震災の前年に入社した次女は第1原発で働いている。
2011年3月11日、大地震が発生した時は第2原発の中にいた。高台に避難した。ここまでは訓練通り。
しばらくして誰かの叫び声が聞こえた。「津波だ」。地獄が始まった。
上野さんは総務や企画部門の女性リーダーだった。
人員数の把握、役割の振り分け。緊急時対策本部が立ち上がり、所長命令が次々飛んできて対応に追われた。
実家がある漁港の町、請戸(うけど)も津波に襲われていた。しかし上野さんには知るよしもない。
翌12日、第1原発の1号機が爆発。第2原発の対策本部でもテレビ映像が流れた。
上野さんと同じく、第1原発で家族が働く所員は何人もいた。
悲鳴。泣き崩れる姿。
ある地元出身社員が泣きながら「帰らせてほしい」と所長に訴えた。
上野さんも気持ちは同じだった。
だけど所長は「士気が下がる。帰らないでくれ」と言った。
何としても原発を制御し、安全に停止させなければならない職業的使命。
家族を案じる、人として当然の感情。
そのはざまで心は激しく引き裂かれた。
必死の電源確保の末、第2原発は3月15日までに1~4号機が全て冷温停止した。
父の遺体が見つかったのは、その約1カ月後だった。
安置所で警察官は「見ない方がいい」と首を振った。母は今も行方不明のままだ。
「会社を恨みました。守る気持ちもありました。その両方でここまで来たかな」
頑固な海の男で、2人の孫娘を溺愛してくれた父。
体が弱かった母には、あまりわがままは言えなかった。
両親のことを思わない日はない。
東電社員としては、原発事故が地域のコミュニティーをずたずたにした罪悪感が心の中を大きく支配する。
同窓会のLINEや、帰還困難区域となった自宅のご近所ネットワークに自ら連絡することはできない。
昔のように、笑いながら人の輪に入っていける勇気がないのだ。
でも何か地域の役に立つことをしなければならないと思う。
長く勤めてきた中で、第1原発は実家、第2原発は嫁ぎ先のようなところだと思っている。
震災から1週間、歯を食いしばって第2原発にとどまった会社の仲間は戦友のようなものだ。
両親の遺影と、昨年長女に生まれた孫の写真を重ねて手帳に入れ、避難先のいわき市から第2原発に通勤する日々。
請戸では2月、海の安全と豊漁を願う安波祭(あんばまつり)が7年ぶりに開かれた。
まだ平らなままの地が、元通りに戻ることはないけれど、少しでも復興の形が見えてくればと願う。
ふるさとのために自分は何ができるのか、自問を続けている。(共同通信=原子力報道室・高橋宏一郎)