【特集】改ざんされかけた「東京オリンピック」

まっとうな時代のまともな対応

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開会式で入場行進する日本選手団=1964年10月10日、国立競技場

 政治家にすごまれ、改ざんされたかもしれない。森友・加計学園、イラク日報問題など最近の話題ではない。半世紀前の映画「東京オリンピック」(市川崑監督、脚本・谷川俊太郎氏ら)公開の是非を巡る騒動だ。「オリンピックとは何か」をテーマに膨大なフィルム記録から戦後復興の象徴とも言える東京大会を描いた。ニッポンの活躍にこだわるより、さまざまなひと模様を実写して「平和の祭典」の意味を問う意欲的な作品に仕上げた。これにダメ出ししたのが自民党の実力者河野一郎氏だ。試写会を見て「こんなひどい記録映画はない。作り直せ」と息巻いた。公式記録映画だったが、「芸術か記録か」の大論争となった。結果は言うまでもない。パワハラの動きを押しのけるほど、当時の社会はまっとうだった。大会翌年の1965年に公開されると観客動員約2千万人という空前のヒットとなった。(共同通信=柴田友明)

 ▽カントクの話

 「三脚を担いで走り回った」。4月上旬、都内のトークショーで78歳の山本晋也監督は撮影助手として「東京オリンピック」制作にかかわった20代の思い出を語った。

 山本監督がマイクを握る傍ら、正面のスクリーンに作品の映像が流れた。冒頭の太陽のアップシーンから、鉄球が古いビルに打ち込まれ音を立てて崩れていくどぎつい光景に移る。創造の前の破壊。人と車がひしめく当時の東京の雑然とした街並みをバックに怪獣映画のようなかん高い曲が鳴り響く。「こういうのが市川監督の描き方」と山本監督。たぶん映画が封切られた直後、メダルの感動を再び求めて来た観客は最初、ぼうぜんとしたことだろう。

 各地の聖火リレーや国立競技場の開会式の映像になり、山本監督が軽妙な語り口で実況中継するような格好になった。オリンピックマーチに合わせて入場行進する各国選手団の特徴を解説。ともかく先進国、発展途上国、分け隔てなく人の表情やしぐさまでしっかり撮れと市川監督から指示されたという。赤いブレザー姿の日本選手団がさっそうと登場すると、山本監督は「これは見事でした」。昭和天皇による開会宣言の前に、観客の目の動き、顔のしわが分かるほどにズームアップされる。「このアップの撮り方が記録映画じゃないでしょ、劇映画そのものだ」

 ▽騒動のなぜ

 2時間のトークショーが終わった。「東京オリンピック」の観客動員数の記録が「千と千尋の神隠し」(2001年、宮崎駿監督)の登場まで36年間破られなかったのが何となく分かる気がした。それは「人間を撮ること」にこだわった市川監督の強い思いがあったからだ。山本監督の話からそう感じた。

 それでは、公開中止まで検討された当時の騒動は一体何だったのか。どう終息したのか。引き上げる山本監督に記者であることを名乗って聞いてみた。「あれは高峰秀子さん、大女優の高峰秀子さんが河野一郎に直談判したから」「市川監督は何も話さなかったなあ…」。

 資料によると、高峰さんは市川監督を擁護するため、新聞にも投書。「ご自慢の高速道路やスタジアムがたっぷり映らないことは不満かもしれないが、作品はオリンピックの汚点だと乱暴な意見をはくなんて、少なくとも国務相と名のつく人物のすることではない」と手厳しく批判したという。

 河野氏と市川監督の話し合いももたれ決着した。折れた河野氏は作品公開の年に亡くなっているので、このやりとりについてどう語っていたのかは判然としない。市川監督は晩年になって「カメラは正直だ」と河野氏に語ったと全国紙の取材に答えている。

 作品への改ざんはなかったが、市川監督たちがかかわることなく、フィルム記録から日本人選手らの活躍などを中心にもう一本の映画が作られている。当時から「忖度」の慣習はあったようだ。

映画「東京オリンピック」の撮影助手としてかかわった山本晋也監督
くわえたばこで作品を語る故市川崑監督=1988年4月、東京都世田谷区