<没後55年記念特集>青山士のパナマ運河開削時代~青春の情熱、唯一の日本人土木技術者~その2 宣誓文にも署名、いざ難工事の地へ

ただ一人の日本人技師青山士(100年ほど前)

情勢の急変

パナマ情勢は青山がシアトル滞在中の明治36年(1903)11月5日に急変し、パナマがコロンビアから分離独立を宣言する。翌6日、アメリカ政府はパナマ独立を承認する。アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは、海軍力の増強とにらみあわせて、アメリカによるパナマ地峡での運河開削に強硬であった。大統領ルーズベルトの手法は帝国主義国家に突入するアメリカの「棍棒(こんぼう)外交」である。同月18日アメリカ・パナマ両国政府は、26条からなる運河条約(ジョン・ヘイ=ビュノオ・ヴァリア条約)に調印する。この条約は「パナマ人が調印していない条約」と呼ばれた。これによって、「パナマは、幅10マイル(約16km)の陸地及び水面下の土地の使用及び管理をアメリカに対して永久に譲与する」ことになるのである。1000万ドルの一時金、25万ドルの年金と引き換えに、アメリカはパナマ運河地帯の永久租借権を得ることになった。

青山は運河条約批准成立の報道をシアトルの地元紙で読んで、さっそく出発の準備に取りかかる。シアトルを発つ前に、ニューヨークのコロンビア大学土木工学科バア教授宛に手紙を書いた。

「拝啓、私は廣井教授の助言に従い、貴下のご配慮をいただいて(パナマで)土木工学の知識を直接得るべく、昨年8月日本を発ってこの町(シアトル)に参りました。当地に来まして以降、パナマ運河開削工事問題の推移を見守って参りましたが、条約の批准も済み、貴下が理事会の理事のひとりに就任したことも聞き及びました。私はただちにニューヨークに向かい、貴下が22日にパナマ地峡に向かわれるかどうか、お聞きしたいと胸が弾んでおります。貴下にお会いし支援がいただけますことを念じて。敬具。青山士

追伸:ブックリン(ニューヨーク)での宛先はコンコード・ストリート17、日本領事館気付けです」

青山の手紙はこなれた英文である。手持ちの資金のない青年青山が、在ニューヨーク日本領事館を頼りにしていたことがうかがえる。それ以上にバア教授を唯一の頼りにしていた。

アメリカ土木技術の父・バア教授

ウィリアム・ヒューバート・バア教授は、アメリカ土木学会を代表する学者のひとりであったのみならず、明治期から大正期にかけての日本から渡米した土木技術者や留学生の恩人でもあった。彼は1851年7月14日、コネチカット州ウォータータウンに父ジョージ、母マリオンの長男として生まれた。家庭はアメリカ北部の由緒ある敬虔なクリスチャンであった。彼は工科大学として著名なニューヨーク州トロイにあるレンセラー・ポリテクニックを卒業し、26歳で母校の教授となる。その後教壇を去って、橋梁建設会社などの技師長や副社長を務め、41歳の時、ハーバード大学土木工学科教授となる。翌年コロンビア大学教授に招かれて、20年以上もの間土木工学科主任教授を務めた。その間、大統領直属の公共事業関連の委員会委員や技術顧問を歴任し、鉄道、港湾、橋梁、ダムなど大規模事業の指揮をとった。

青山との関係で重要なのは、「アメリカ土木技術の父」バア教授が、1899年マッキンレイ大統領により、パナマ運河計画を検討する第一回パナマ地峡運河委員会(Isthmian Canal Commission、ICC)の技術担当理事に任命されたことである。教授は現地に赴き、4カ月間熱帯雨林のジャングルの中で地質や地形の調査を行った。バア教授が灼熱の現地で見た光景はレッセプス敗退後の荒廃しきった工事現場であり、ゴーストタウンさながらの廃屋の数々であった。

教授は2年後には、マッキンレイ大統領暗殺後に大統領に就任したセオドア・ルーズベルトから第2回理事会の理事に改めて任命された。この第2回理事会がパナマ運河開削を正式に決めたのである。ルーズベルト大統領は通商と軍事の両面でパナマ運河開削に異常なほど情熱を傾けた。バア教授は昭和9年(1934)12月13日、ニューヨークのイーストエンド・アベニューにある病院ドクターズ・ホスピタルで老衰のため不帰の客となった。享年83歳。

青山が後年バア教授の死を悼み、自著「ぱなま運河の話」を同教授に捧げた。「ぱなま運河の話」の見開きのページに青山のペンの書き込みがある。

<ゲーテの夢。人類がやがて成し遂げるであろう三つの偉大なる工事。それを見て死ぬ者は何と幸福であろう。その三つというのは「パナマ運河」「ダニューブ(ドナウ)とラインを結ぶ運河」「スエズの夫(それ)」である>。「それを見て死ねた」青山は、「幸福」なエンジニアであったが、そこにはアメリカ人であるバア教授の国籍や皮膚の色を超えた学者として、またクリスチャンとしての「愛」があったことを忘れてはなるまい。

出発を待つ日々

ニューヨーク・グランドセントラル駅に到着した青山は、さっそく市内にあるコロンビア大学キャンパスに教授を訪問した。青山は廣井教授からの英文紹介状を手渡すとともにパナマ運河工事への参加を改めて懇願した。

「青山さん、あなたも廣井教授と同じようにクリスチャンですか」

バア教授は静かな口調で質問した。

「その通りです」。青山が答えるとバア教授は語った。

「キリストの教えは民族、文化、種族、男女の性などの境を超えるものです。パウロによれば『洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです』(「ガラテヤの信徒への手紙3:27-28」)ということです」

話がパナマ事情に及ぶと、口髭をたくわえたバア教授の表情に陰りが見えた。アメリカ・パナマ両国政府が運河条約に調印した後でもなお現地入りの期は熟していなかった。やむを得ず、青山はバア教授の計らいで、教授から紹介状を手渡され、ニューヨーク市の北48マイル(約77km)のマウント・キスコで工事中のニューヨーク・セントラル・アンド・ハドソン河鉄道会社の鉄道移設現場で働くことになる。ニュー・クロトンダム建設に伴う路線変更工事である。日本人としては英会話の得意な青山であったが、それでも言葉の通じない不便さは想像を超えた。路線で測量中に背後から驀進(ばくしん)してくる急行列車に危うくひかれそうになったこともあった。長身の白人主任技師ノートンのもとで2カ月間働いたが、青山はこの間の現場での経験がその後役に立ったと述懐している。アメリカは鉄道建設時代に入っており、建設現場には英語も出来ない中国系の移民が大量に投入された。バア教授の紹介状があったとはいえ、この時期の青山も現場労働者に近い立場であった。

運河工事参加に際しての宣誓書(米国政府から要求された。提供:高崎氏)

パナマへ出航

「油なす カリビアの海 風あつく 我灯守の 跡を逐(おい)つつー読人知らず」(「ぱなま運河の話」、青山作と思われる)。明治37年(1904)3月3日、アメリカ政府は、パナマ運河建設に向けて海軍将校ジョン・ウォーカーを理事長とするパナマ地峡運河理事会(ICC)を正式に発足させる。巨大運河の建設事業は、軍隊(陸軍工兵隊)を投入しアメリカ政府直轄事業として展開されることになった。現地測量が一向にはかどらずマラリアなどの風土病対策に遅れを取っている現状に業を煮やした政府首脳部は、鉄道技師ジョン・ウォーレスを主任技師に任命し、本格的な測量に入るよう求めた。しかしながら、専門知識を持つ技術者の確保も思うように進まなかった。明治37年5月4日、アメリカ政府はフランス運河会社から既成工事の現場、家屋などの財産、設計書類などをすべて買い受け、引き継ぎを完了する。5月25日、バア教授はウォーカー理事長宛に私信を送った。

「パナマとコロン(注:太平洋側と大西洋側の主要都市)測量現場技術者を求めているが、応募者が少ない。日本の廣井教授から紹介された青山という日本人青年とエドワード・フェランというアメリカ人を、H・F・ドーズ班長が統括する末端測量員(rodman=ポール持ち)に採用したい。ご理解願いたい」

パナマ運河開削工事は、灼熱地獄の中で、長い雨期には豪雨に打たれて過酷な作業を強いられることから、アメリカ国内からの優秀な技術者の応募は少なかった。

アメリカ国防省からパナマ運河工事採用通知(英文)が届いた。

「パナマ運河開削工事の技術者に1904年7月1日から月給75ドルで採用する。同日、ドーズ班長がいるパナマ運河鉄道会社お蒸気船ユカタン号の船上に出頭せよ。ニューヨークからコロンまでの船舶経費は委員会が用意する。無著名の宣誓書が同封されているが、後日書き込んでいただく。(以下略)」(大意)。

5月27日、青山のもとにICC理事のバア教授から直接連絡が入った。「パナマに技術陣を送り込むことになり、君を末端測量員として一員に加えることになった。6月1日ニューヨークから船で現地に向かうように」。

青山は感謝の意を伝え、早速出発の準備に取り掛かった。5月31日付の国防省からの正式採用通知には、青山の立場は末端測量員であること、無試験で採用したこと、バア教授の紹介であること、月給は75ドルであること、パナマまでの経費はICCが負担することなどが記されていた。正式採用が国防省から出されたことに、アメリカ政府のパナマ運河開削工事に対する決意のほどがうかがわれる。月給75ドルは同年輩の大学卒アメリカ人技師に比較すれば決して高くはない額である。当時の日本円に換算すると190円前後になり、日本の大学を卒業したばかりの青年にとっては破格の高給である。当時の日本では、高等文官試験に合格した国家公務員(高等官、今日のキャリア組)の初任給が月額50円である。大卒の銀行員の初任給は月額35円である。青山は給与の大半を日本の父徹や弟たちへの仕送りに充てた。

6月1日、青山は夏の気配の感じられるニューヨーク港の埠頭に停泊中の客船ユカタン号にアメリカ人技術者らと共に乗り込み、カリビア海を渡ってパナマに向かう。船上で、アメリカ政府への忠誠を誓う宣誓をするとともに契約書にサインし、正規の外国人技術者として大規模工事への参加が認められた。日本人技術者が宣誓した珍しい宣誓書(OATH)であり、英文全文を引用する。

                                 OATH

Prescribed by Section 1757 of the Revised Statutes of the United States.See Act approved May 13,1884.

State of New York: ss

I, A.Awoyama,of Brooklyn, in the County of Kings and State of New York,do solemnly swear that I will support and defend the Constitution of the United States against all enemies, Foreign and Domestic; that I will bear true faith and allegiance to the same;that I take this obligation freely,without any mental reservation or purpose of evasion; and that I will well and faithfully discharge the duties of the office on which I am able to enter:So help me God.

Awoyama

Sworn and subscribed to before me this 1st day ,June,1904.

                                     (Signature)

                                     Notary Public

(原文はイタリック体で、文末に公証人のサインが書かれている)

「私、青山士はニューヨーク州キングズ郡ブルックリンに住むものでありますが、米国憲法を遵守し、国内外のいかなる敵とも闘うことを厳粛に誓います。また、憲法に忠誠と忠節を誓います。私はこの義務を、なんら意中保留や責任回避することなく遂行します。私がこれからかかわろうとする公務に全力を投入することを誓います。神よ、我を助けたまえ。青山士(サイン)。

この宣誓は、1904年6月1日、私に対して誓い提出されたものであることを証します。(公証人)」

採用通知には、次のような条件が記されている。現地で技術者として十分な成果を上げた場合には、帰路のニューヨーク行き船賃は無料となること。成果が上げられない場合または解雇された場合には、帰路のアメリカ行きの船賃は支給されないこと。病気になった場合には、現地の病院で無料で治療を受けられること。有給休暇は毎年6週間であり、休暇の際のコロン-ニューヨーク間の船賃は片道で15ドルであること。(注:これは食事代で船賃は格安になる)。家族を呼ぶ場合にも船賃は片道15ドルであること。

外国人技術者青山士が劣悪な異郷の環境に耐えて、まれに見る成果を上げるのはこれからである。

参考文献:拙書「技師 青山士」(鹿島出版会)

(つづく)

 

 

 

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