強さも細やかさも

 「どういうことなのか、オレでは不足なのか」。プライドが傷つく。それでも目の前のピンチは切り抜けねばならない。追い詰められて一度は「もう負けや」と心で弱音を吐く。ノンフィクション作家、山際淳司さんの「江夏の21球」は緊迫の場面の連続▲日本シリーズ第7戦の九回裏、相手の近鉄に一打出れば逆転サヨナラ負けというとき、広島ベンチはブルペンの投手に投球練習をさせ始める。マウンドの江夏豊さんは自分を代えるつもりかと疑い、心が揺らぐ▲たった1人、異変に気付いて声を掛けてきた。「オレもお前と同じ気持ちだ。ベンチやブルペンのことなんて気にするな」。一塁を守る衣笠祥雄さんの一言に江夏さんは救われ、集中力をよみがえらせたという▲1979年の「江夏の21球」は、究極のピンチを究極の投球術でしのいだ逸話として伝わるが、孤高の左腕のスイッチを切り替えたのは衣笠さんの一声だった。鉄人と呼ばれたその人の突然の訃報を聞く。71歳▲けがに負けず試合に出続けるタフさは比類ないが、心折れそうな誰かにすっと寄り添う細やかさも、得難い資質だったろう。気さくな笑顔の奥のしなやかな精神を思う▲長崎市にある衣笠球場は鉄人の心に学ぼうと名付けられたという。強さと細やかさと、その心はきっと広くて奥深い。(徹)

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