車いすバスケットボール女子の元日本代表で、シドニーパラリンピックの銅メダリスト増子恵美(ましこ・めぐみ)さん(47)=福島市=が4月下旬、東京電力福島第1原発を見学した。2011年の原発事故後、車いすの人が入るのは初めてだ。
「私の体と同じで、元通りにするのは難しいですね」。19歳のとき、車にはねられ下半身不随となった自らの人生と重ね合わせながら、事故の傷痕が残る原子炉建屋や、人けのない周辺地域を見つめた。
1996年の米アトランタから、シドニー、北京、アテネと4大会連続でパラリンピックに出場した。日本代表の中心選手として活躍する一方、出身地の福島では県障がい者スポーツ協会職員として、障害者の生活支援やスポーツ普及に尽力してきた。
東日本大震災と原発事故が起きた直後は、避難所で障害者が苦境に置かれていないか見て回った。支援物資として地元ラジオ局に寄せられたラジオを足の不自由な人に次々配り、視覚や聴覚の障害者にはツイッターで生活関連情報を連日配信した。
「彼女は車いすアスリートというだけでなく、多くの障害者に信頼されるリーダーなんです」
そう話すのは、福島のラジオ番組で震災・原発事故に関連した語りを続けるフリーアナウンサー大和田新(おおわだ・あらた)さん(63)。「第1原発の現状をしっかり見て、ふるさと福島のため、さらにいろいろと発信してほしい」と増子さんを見学に誘った。
手助けが必要な自分が行ってもいいものか、最初はためらった。でも多くの人が今も苦しめられている原因の場所を、この目で確認したい。「行きます」と覚悟を決めた。
東電は当初「受け入れ条件が整っていない」と難色を示した。廃炉作業が続く構内は巨大な工事現場そのもの。階段や段差もあちこちにあって、バリアフリーとは無縁の世界だ。
増子さんは東電福島広報部の岡崎誠(おかざき・まこと)さん(50)に2回会った。車いすのトップアスリートだから、見学用バスには腕と上半身の力で乗り込める。身の回りのことだって、ほとんど自力でできる。体の状況も詳しく伝えた。
岡崎さんは正月の箱根駅伝で知られる早稲田大競走部の出身。東電陸上部OBで、今も福島県内各地のマラソン大会に出場する市民ランナーでもある。
スポーツをする者同士、増子さんに確たる熱意があることが岡崎さんには分かった。第1原発の所員と相談し、建物の通路幅は車いすで通れるかどうか、出入りする際の検査ゲートはどうやって通ったらいいか、可能性を探った。社内の調整を何度も重ねて「特例として許可しよう」と全社的な了解を取り付けた。
4月26日。車いすに放射性物質が付くのを避けるため、見学用バスからは降りないルート設定となった。マスクや線量計など装備を確認して、いざ出発。
1号機、2号機に近付くと、増子さんは建屋をバスの窓越しにじっと見上げた。防護服を着て屋外でさまざまな仕事に従事する作業員にも視線を送った。津波が押し寄せた状況や、建屋が水素爆発を起こしたときの様子、この7年間の構内の変化を同行した岡崎さんが説明する。
「原発事故以降、総電力消費量は減っているんですよね」と増子さん。「省エネ意識や(消費電力が少ない)LED電球の普及もあるようです」と岡崎さん。空前の事故が起きた原発の構内で、2人の会話は図らずも電気論になった。
「脳が疲れました。正直言うと、戦場と第1原発には足を踏み入れることができないと思っていました。建屋が水素爆発を起こしたあの時の音のないテレビ映像が頭に残っていて、人が二度と入れる所ではなくなったというイメージがありましたから」。見学を終えた増子さんは、そう話し始めた。
動物好きでもある増子さんは、原発周辺で置き去りになったペットや家畜を保護するため、11年12月ごろから帰還困難区域をボランティア仲間と何度も巡回した経験がある。荒れ果てて、人が全くいない状況は、7年前のあのころと全く変わっていない。
「構内の復興は進んで、世界中の英知を結集して廃炉に挑んでいる最前線なんだと分かりました。でも、電気がないと何もできない暮らしを誰もが続けている。国のエネルギー政策、電気の使い方。私たちは震災と原発事故から何を得たのか、今もう一度見直すときかなと思いました。たいへん勉強になりました」
大いに刺激を受けたのだろう。数日後、自身のフェイスブックで「路上の点字ブロックをまたいで駐車していたり、飲食店で車いすの入店を断られたり、福島市はバリアフリーがまだまだです。東京五輪の野球・ソフトボール開催までに、楽しく街を変えていきます」と宣言した。
さすがはリーダー、早速の新たな発信である。(共同通信・原子力報道室=高橋宏一郎)