「独立リーグ10年選手」から球団社長に 四国IL高知・梶田宙社長の歩む道

高知ファイティングドッグス、選手時代の梶田宙社長【写真:広尾晃】

“記念受験”のつもりがトライアウト合格

 独立リーグ、四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグスを運営する株式会社高知ファイティングドッグス球団の梶田宙社長は、独立リーグ唯一の「10年選手」を経て球団社長に就任した異色の経歴の持ち主だ。梶田社長に「10年選手」から「球団社長」になるに至った経緯を聞いた。

 梶田社長は甲子園球児だ。2000年春の選抜、3月25日の九州学院戦に享栄高校の「1番・中堅」として出場。高校卒業後は愛知大学硬式野球部に進んだ。

「大学の1年の時に肩の手術をして、4年まで全然試合に出られなかったんです。ところが4年生になって秋の神宮大会の佛教大学との試合で、3打数2安打1打点、盗塁も決めました。チームは負けましたが、まだ野球ができそうだ、硬式野球を続けたいという思いが沸いてきたんです。

 しかし、大学時代の実績はほとんどありませんから、社会人の硬式野球からは声がかからなくて、トヨタグループの企業に入社し、そこの軟式野球部でプレーすることが内定していました。

 そんな時に、四国に独立リーグができるという話を耳にしました。大学の同級生が”こんなのあるよ”と教えてくれたんです。で、“記念受験”のつもりでトライアウトを受けたら、とんとん拍子で採用が決まってしまったんです。そこで内定していた企業に”ごめんなさい”をして高知に入団することにしました」

 愛知大学は高知でキャンプを張っていた。多少の縁はあったが、全く未知の環境でのスタートだった。

「1年目はリーグ自身も始まったばかりでしたから、必死でプレーをしました。当時はあまりボールが飛ばなかったように思います。転機になったのは2年目のリーグチャンピオンシップでした。前期優勝の高知と後期優勝の香川の対戦でしたが、僕の凡ミスで優勝を逃してしまったんです。その時に辞めようかな、と一旦は思ったんですが、それじゃあ悔いが残ると思い直して、もう1年プレーを続けることにしたんです」

 翌2007年には打率.293(7位)を記録。ベストナインにも選ばれた。

「この年が一番チャンスだったかなと思います。ただ後半戦に成績が落ちてしまった。NPBを目指すのは難しいかなと思いましたが、自分の中でまだ伸びつつあるという自覚もあったので、もう1年、もう1年と続けているうちに10年が経ってしまいました」

地元との熱い絆 周囲の支援で続けられた選手生活

 梶田社長は現役時代から、地元ファンの熱い支援に支えられた。試合ではいつもひときわ大きな声援が起こった。

「年とともに、地元のために頑張ろうという気持ちがどんどん強くなりました。チームの年俸だけでは生活は苦しかったのですが、それを個人スポンサーの方々が支援していただいたんです。それが野球の励みにもなりました。年とともに古くからの選手がどんどん少なくなっていったので、支援者の方に食事などで誘っていただく回数も、一緒にいる回数も増えて、心でつながるようになったんです」

 実働年数だけでなく、通算打数、通算打席数も四国IL史上1位、通算安打数は3位、通算盗塁数は5位。向かっていく打者だったこともあり、通算死球数も1位だった。

「でも、限界も少しずつ感じていました。辞める2年ほど前から動体視力が落ちてきたと思っていました。そんな時に怪我もして、2014年限りで引退することにしました」

 2014年9月13日、高知県土佐山田スタジアムで引退試合が行われた。独立リーグでは全く異例のことだ。球場には10年間、梶田宙を応援してきた多くのファンが駆けつけた。

「この時、うちのオーナーにはすでに“思い”があったようです。球場で『社長やらないか?』と言われました。僕は即座に『無理です』と言いました。まさか本気とは思いませんでした。その1週間後くらいに、スポンサーの方とオーナーと一緒に食事をした時に、こういう形で社長にしようと思うんですけど、という話が出て、『ああ、本気なんだな』と思いました」

 梶田宙新社長は、理事会で正式に承認された。各球団のオーナーも「リーグのためにはいいんじゃないか」と好意的だった。

「まあ“囲われた”というか(笑)、断ることができなくなったんです。もともと、僕は引退しても故郷に帰る気はありませんでした。高知に残ってファイティングドッグスの事業の一環として野球塾でもやろうとかと、北古味潤副社長などと相談していたんです。高知にはそういうのはなかったので。そこへ、こういう話になったので腹をくくりました」

 こうして31歳の若い球団社長が誕生した。

(広尾晃 / Koh Hiroo)

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