「記者射殺」のフェイク情報でウクライナが失ったもの

By 太田清

30日、記者会見に現れたバブチェンコ氏(中央)=キエフ(ロイター=共同)

 ロシアのプーチン政権に批判的なリポートを続けたロシア人記者がウクライナの首都キエフで射殺され、同政権の関与に疑いの目が向けられる中、突然、当の記者が30日、ウクライナの検事総長らを伴い会見に現れ「私は生きている」と語った。記者は殺害されていなかったのだ。射殺情報は記者の暗殺計画を阻止するためのウクライナ当局による虚偽の発表だった。 

 暗殺計画は失敗に終わり、計画に関わった容疑者は逮捕された。ウクライナ当局のもくろみは成功したと言えるかもしれないが、同国は代わりに主権国家として最も大切なものの一つを失った。「国家に対する信頼」だ。 

 ▽2か月前から準備

 ウクライナの警察当局は29日、ロシアのウクライナ紛争介入やシリア空爆を批判し、度重なる脅迫を受けたとして昨年2月にウクライナに移住したアルカジー・バブチェンコ記者(41)について、キエフの自宅アパートで複数回、銃撃され死亡したと発表。容疑者の似顔絵を公開し行方を追っているとしていた。 

 しかし、これはウクライナ当局が2か月前から周到に準備した「特殊作戦」の一環だった。同国の情報機関、保安局のグリツァク長官によると、30日に逮捕されたウクライナ人容疑者は、ロシア情報機関の依頼を受けバブチェンコ記者殺害を計画、実行犯の男に対し3万ドル(約330万円)の報酬を約束し1万5000ドルを前金として渡した。「殺害リスト」には、同記者のほか約30人が入っており順次、殺害する計画だったとみられる。実行犯の男がウクライナ当局に計画を暴露したことから発覚した。 

 「特殊作戦」はポロシェンコ大統領にも伝えられ了承を得ていた。作戦のために容疑者の似顔絵のほか、殺害された記者の写真、警察の声明まで準備された。バブチェンコ記者も1か月前に作戦を聞かされ協力を約束。会見した同記者は「オーレチカ(妻の名前)、許してくれ。でもほかに選択肢はなかった」とまず、妻にわびた。バブチェンコ記者が働いていたラジオ・フリー・ヨーロッパでは、同僚の記者らが死んだと思っていた同記者の会見をテレビで見て、歓声を上げた。 

 ▽オオカミ少年

 しかし喜びはここまでで、後は多くの国際機関や識者から、ウクライナ政府のやり方に批判が相次いだ。ロシアのニュースサイト「ガゼータ・ルー」によると、国境なき記者団は「政府がジャーナリストを利用して事実をもてあそぶことはいつも危険だ」と批判。欧州安全保障協力機構(OSCE)のメディアの自由問題担当代表は「客観的な情報を社会に提供することが国家の債務だ」と強調した。 

 ウクライナのニュースサイト「アポストロフ」のデニス・ポポビッチ編集長は「オオカミ少年」の寓話を例に出し、こうしたやり方を許せば、政府は今後、どのような情報操作も可能になると指摘。ロシアのメディア問題専門家であるイーゴリ・バイシャ氏は「(ウクライナ紛争などでロシアとの対立を深める)ウクライナが今後、ロシアをどのような形で批判しても懐疑的に受け止められる」とした。 

 ウクライナ政府に協力したバブチェンコ記者に対する批判もある。同記者の元同僚のロシア人ジャーナリスト、アンドレイ・ソルダトフ氏は、「一線を大きく越えた。バブチェンコは警官ではなくジャーナリストだ。われわれの仕事の一部は信頼だ」とツイートした。 

 英BBCテレビは、モスクワからのリポートで今回の虚偽発表が結果的にロシアを利する可能性に懸念を示した。ロシア政府は、神経剤による元ロシア情報機関員毒殺未遂事件について英国側の情報操作だとの主張を続けているが、親欧米のウクライナの情報操作が明白になったことで、自身の主張が裏付けられたとの立場を強めるとみられる。 (共同通信=太田清)

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