ワールドカップの直前になると「サプライズ招集」と同じくらい注目を集めるのは、メンバー入りが確実視されながらも本大会行きを逃した選手だ。
今回でもGKジョー・ハートやMFラジャ・ナインゴラン、MFマリオ・ゲッツェといった選手たちがメンバー外となっており、今後もそうした選手は出てくると思われる。
そこで今回は、過去のワールドカップにおいて招集を期待されながらもメンバー入りすることができなかった選手を振り返る。
三浦 知良(1998年大会)
生年月日:1967/02/26 (51歳)
ポジション:FW
当時の所属クラブ:ヴェルディ川崎
日本が初出場した1998年のフランスワールドカップ。
そこで起きた衝撃のメンバー落ちは、今後も4年に一度、必ず話題となるだろう。
「外れるのはカズ、三浦カズ」
あのときワールドカップ出場を果たしていたら、カズはこんなにも長く現役でプレーしていなかったかもしれない。
選出者:編集部O
中村 俊輔(2002年大会)
生年月日:1978/06/24 (39歳)
ポジション:MF
当時の所属クラブ:横浜F・マリノス
2002年における落選と言えば中村俊輔に他ならない。
左サイドから名波浩とのコンビでトルシエ政権中期の攻撃サッカーを支えたが、本大会が近づくにあたって徐々に出番が減少し、ついに本大会ではメンバーから離れてしまった。
しかし、この挫折がジーコジャパンにおいてエースとなった中村俊輔を作り上げたともいえる。
選出者:編集部K
高原 直泰(2002年大会)
生年月日:1979/06/04 (38歳)
ポジション:FW
当時の所属クラブ:ジュビロ磐田
ボカからジュビロ磐田に復帰していた当時22歳の高原。
本大会が迫るなか2002年3月末に行われた欧州遠征ではポーランド戦でゴールも決めた。
だが、その帰路で悲劇に見舞われる。エコノミークラス症候群を発症し、引退の危機に瀕することに…。
その結果、エースと期待されていた地元開催のワールドカップ欠場を余儀なくされた。
4か月後に見事復帰を果たすが、2004年にも再発。オーバーエイジで参加予定だったアテネ五輪を欠場している。
選出者:編集部I
久保 竜彦(2006年大会)
生年月日:1976/06/18 (41歳)
ポジション:FW
当時の所属クラブ:横浜F・マリノス
2006年大会でのサプライズといえば、巻の選出であり、エース久保竜彦の落選であろう。
ジーコ体制で最多となる18試合11ゴール、2004年の欧州遠征ではハンガリー、チェコ、アイスランドから3試合連続ゴールを決めた久保。特にチェコ戦ではあのチェフのニアサイドをぶち破り、日本中が世界で通用するFWの登場に心躍らせた。
しかし、その日本人離れした身体能力は同時に肉体へ過度な負担となる。クラブと代表の行き来によって慢性的な腰痛・足首痛に悩まされるようになり、マリノス1年目で記録した16ゴールは、翌年、わずか19試合4ゴールに終わっていた。
それでも「エースが落選することはないだろう」、当時はそんな雰囲気だっただろうか。だが無情にもジーコの口から最後に呼ばれた名前は「マキ」。2002年大会に続いての落選となったが、確実視された中での選出外の衝撃はあまりにも大きかった。
選出者:編集部H
香川 真司(2010年大会)
生年月日:1989/03/17 (29歳)
ポジション:MF
当時の所属クラブ:セレッソ大阪
2008年5月、平成生まれの選手として初めて日本代表のユニフォームに袖を通した香川真司。10月に行われたUAE戦では初ゴールをあげ、日本代表史上3番目の若いスコアラーとなった(19歳206日)。
所属するセレッソ大阪でも傑出したプレーを見せており、翌年にはMFながら27得点をあげJ2の得点王にも輝いた。そうした活躍から代表入りを期待する声も多かったが、2010年大会に向けた23人のリストに香川の名前はなかった。
本大会終後、香川はドルトムントに移籍。すぐさまチームにフィットしMVP級の働きを見せ、9シーズンぶりとなるリーグ制覇の原動力となった。
これ以降、香川は日本代表の中心選手となり、背番号「10」を背負うことに。香川のキャリアを振り返ったと時、2010年大会の落選は大きな分岐点となったに違いない。
選出者:編集部S