メガネの名一塁手、小田義人氏71歳で死去 ヤクルト、日本ハムなどで活躍

メガネの名一塁手、小田義人氏の通算成績

26歳でプロ入りの遅咲き、藤井・青木・田中浩らを発掘

 ヤクルト、南海、日本ハム、近鉄で活躍した小田義人氏が5日、肺がんのため死去した。71歳だった。

 小田氏は、名門静岡高時代に甲子園に出場、1965年の第1回ドラフト会議では阪急ブレーブスから6位で指名された。ちなみにこのとき同じ阪急から4位で指名されたのが習志野高校の谷沢健一だった。しかし2人とも入団を拒否して早稲田大学に進んだ。

 この1966年入学世代は、早大野球部史上空前の豊作となった。ドラフト年は異なるが、7人もの同級生がプロ入りしたのだ。

投手 小坂敏彦(高松商 1969年巨人1位)
投手 安田猛(小倉高 大昭和製紙を経て1971年ヤクルト6位)
捕手 阿野鉱二(明星高 1969年巨人2位)
一塁手 小田義人(静岡高 大昭和製紙を経て1972年ヤクルト2位)
遊撃手 荒川尭(早実高 1969年大洋1位)
外野手 谷沢健一(習志野高 1969年中日1位)
外野手 千藤三樹男(岐阜商高 北海道拓銀を経て1971年東映7位)

 7人はすべて1軍で活躍した。小田氏は谷沢、阿野らとともに1年生から石井藤吉郎監督に注目されたが、谷沢と荒川が東京六大学のスター選手になる中で、卒業時にはやや影が薄くドラフト指名されなかった。そして社会人を経て1972年のドラフトでヤクルトに2位指名され、同期7人の中では最も遅くプロ入り。入団年には26歳になっていた。

 ヤクルトでは即戦力として1年目から一塁で起用されるが、正位置を確保できず、1974年オフに大杉勝男とのトレードで日本ハムに移籍した。

日本ハムでは張本らとクリーンアップを組む

 日本ハム1年目の1975年は3番DH張本勲、4番一塁小田義人、5番左翼で大学同期の千藤三樹男という布陣。首位打者になった太平洋、白仁天の打率.31926に5毛差に迫る.31873をマーク。シュアな中距離打者として売り出した。

 この当時から、投手では高橋直樹、浅野啓司などメガネをかけた選手はいたが、野手では小田氏ぐらいで、極めて珍しかった。しかし守備はうまく、ゴロ処理などで俊敏なプレーを見せた。また野球選手らしからぬ知的な風貌で、人気があった。

 1977年、南海ホークスは野村克也監督の退団に伴う内紛で、柏原純一の放出を決定。小田氏は杉田久雄とともに柏原との交換トレードで南海に移籍した。

 南海では左打者の片平晋作と併用されたが次第に出場機会が減少、1981年に南海を自由契約となり近鉄に移籍。近鉄で2年プレーして引退した。

 通算成績は887試合2384打数610安打67本塁打274打点28盗塁、打率.256。1976年にはオールスターに選出されている。

 引退後は近鉄のスカウト、ヤクルトのコーチ、スカウト、スカウト部長を歴任。ヤクルトでは。藤井秀悟、鎌田祐哉、青木宣親、田中浩康、武内晋一と、早大の後輩にあたる有力選手を次々と入団させた。

 星野仙一氏、片平晋作氏、衣笠祥雄氏…。今年に入って、昭和のプロ野球をにぎわせた名選手の訃報が続いている。

 小田義人氏も71歳。まだひと働きできる年齢だった。早すぎる死が惜しまれる。

(Full-Count編集部)

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