父さん賃上げ、母さん工賃引き上げ 正史は片隅にも残さず

By 佐々木央

研究会「職場の人権」で女性オルグの多彩な活動を話す伍賀偕子さん

 大阪万博(エキスポ70)で働く若者たちの人権回復を組織した伍賀偕子(ごかともこ)さんと女性オルグの歩みをたどりたい。

 伍賀さんは1966年、学生運動から労働運動に転じ、大阪総評のオルグとなる。最初の名刺は「大阪総評婦人対策・主婦の会オルグ」だった。「主婦の会」とは何か。

 総評にとっての位置づけは、その頃のスローガンによく示されている。「合理化に反対し、お父さんの命を守る」「家計簿の赤字から春闘を支援する」

 主婦の会の出発点は労組支援だった。夫の賃金だけで家族が養えるような「家族賃金」を求め、春闘を支援する。つまり男性稼ぎ手モデルで、性別分業を前提にした闘いだった。

 だが、集会を開いても人が集まらない。主婦たちはその時間、内職やパートで忙しく、集会どころではなかったからだ。そこから主婦の会は、いい意味で変質していく。スローガンは「父さん賃上げ、母さん工賃引き上げ」になり、働く主婦としての権利と要求を掲げていく。「労働者の妻」という従属的な地位から、自らの労働者性に気づいたのだ。

 総評は65年、第1回「内職大会」を開き、76年には「内職・パート大会」に名称変更、それは86年に「パートタイマー全国交流集会」となる。

 78年の主婦の会中央学習会で「男女の役割分担を見直そう」がテーマとなる。この年の内職・パート大会は「男女平等と労働権確立を目指す」。こうした変遷・深化に伍賀さんら女性オルグが寄り添い、オルグ自身も学び、自己変革を遂げていく。

 女性保護の廃止を含む労基法改悪の動きには、大阪の働く婦人2万人の生活実態調査を積み上げ、反対闘争の基礎を築く。総評は官公庁の労働者が中心だったが、このときの回答者の半数が民間企業に働く人で、その6割以上が未組織だった。伍賀さんらが「(組合員)1人が5人の未組織労働者との対話を」と呼びかけた結果だった。

 88年冬には11カ所の職業安定所の前に立ち、女性が退職・転職せざるを得なくなった事情を聞き取る。3709人の協力を得て「女が退職するとき 続けるとき」という調査結果をまとめた。

 合い言葉は「心は常に未組織労働者とともに」だったという。大阪万博で組織した「エキスポ総合労組」も、こうした未組織労働者への姿勢が結実したといえる。

 伍賀さんの取り組みは労働問題にとどまらない。大阪だけにタクシー冷房料金を導入するという決定に対して、市民団体などと共闘し撤回させた(67年)。物価値上げのトップをきったキッコーマン醬油に不買運動で対抗し、全国に抗議の声を広げて元の値段に引き下げさせた(68年)。合成洗剤追放運動にも取り組み、82年には次のような文章を研究誌に寄稿している。

 「民主主義を論じる人が、子どもたちの生命が蝕まれていることに対して、デモクラティックな憤りが沸いてこず(略)使い捨て大量消費文明に浸っている自分の生活を変えようとしないのは、何かが欠如していると思う(略)。『くらし』は人間的な活動の本質である労働をし、自由に考え豊かな生き方をエンジョイし、そしてそのためにたたかう、これらの人間の営みが一体となったトータルなものであり、民主主義の原点だと思います」

 これらは伍賀さんの活動の一部にすぎない。女性オルグたちは独創的で多彩な運動を作り上げていった。だが、実は総評の運動史の片隅にも記述されていない。総評の遺産を研究するどの論文も扱わない。「主婦の会」の通史も存在しない。

 組合員の多数は男性であり、指導層も男性が占めていた。女性は会社内でも組合でも少数者であり、権力を持たなかった。正史が女性を顧みないのは、他の多くの分野でも共通する。

 だからこそ女性たちは、未組織の弱い立場の労働者に共感し、手をつなぐことができたのではないか。

 伍賀さんの話を聞き「メディアで働く女性ネットワーク」を思いだした。前財務事務次官のセクシャルハラスメント問題をきっかけに、組織内ジャーナリストとフリーランスの記者たちが作った組織だ。会社に被害を訴えても、組合に救済を求めても、男性優位の構造の中で握りつぶされたり、逆に不当な配転を命じられたりする。その現実に、組織を超えて少数者が連帯した。これまでに多くの犠牲を払ったが、彼女たちは立ち上がった。

 伍賀さんは女性オルグと女性労働者の運動を振り返って、こう述べる。

 「いま低賃金で不安定な非正規雇用の人たちが増えている。このような中でも当事者自身が声をあげ、自ら立ち上がって要求を獲得していく道筋を歩むことができるような社会を築きたい。そのために私たちの経験を生かしてほしい」(47NEWS編集部、共同通信編集委員佐々木央)

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