「リレーコラム」信念貫いたスケーターの引き際 五輪メダルに挑んだショートトラックの坂爪亮介

平昌五輪のショートトラック男子500メートル準決勝で滑走する坂爪亮介=江陵(共同)

 2018年平昌冬季五輪のスピードスケート・ショートトラック男子1000メートルで、日本勢で3大会ぶりの5位入賞を果たした坂爪亮介が現役を引退した。

 4年後の2022年北京五輪は31歳。「まだやれる」と思っていただけに、少し残念にも思った。

 ただ、低迷するマイナー競技で五輪のメダルを獲得するという信念を貫き、緻密な計画で努力を重ねた選手。「平昌がリミットと設定して臨み、ここをこうすれば…と思わないように取り組んだので。あと4年やるほどのエネルギーはない」という言葉を聞き、「彼らしい引き際だな」と納得した。

 休日もビデオを分析してライバルをフォルダ分けし、「スケートの悩みはスケートで解決する」―。

 決して身体能力が高いわけではない。だが、スケートにとことんこだわり、突き詰めるタイプだった。

 2014年ソチ五輪をターゲットに4年間の計画を練り、1季目は目標通りに代表入り。2季目は「道具を自分で管理する年」と設定。100分の1ミリの正確さが求められるスケート靴のブレード(刃)調整を選手自身が完璧にできる数少ない存在になった。

 「世界で実力を試す時」と位置付けた3季目は、世界選手権1500メートルで4位。思い描いた通りに事が運んでいただけに、最後の五輪シーズン、ワールドカップ(W杯)初戦で右脚を骨折したことが無念でならない。

 ソチ五輪出場にこぎ着けたが、引きずるような脚では勝負にならなかった。

 その後のオフシーズン。あまり口にしないアルコールで顔を赤らめた坂爪から「日本は平昌五輪でメダルを取れると思いますか」「どうやったら取れますかね」と問われた。

 1998年長野五輪を最後にメダル獲得がなく、低迷が続く日本ショートトラック界。マイナー競技では練習する環境は決して恵まれていない。

 答えが出ないまま、いつしか「結局、誰かがメダルを取って現状を打破するしかない。頑張ります」という言葉に収束していた。

 再び始まった4年間。1、2シーズン目は新たな態勢となったナショナルチームでキャプテンを務め、後輩を引っ張った。

 しかし、3シーズン目はナショナルチームを離れ、自身が台頭するきっかけとなった韓国を拠点に独自トレーニングすることを決意した。

 自分勝手にも思えるかもしれないが、思い入れのあるチームを離れる決断はつらかったに違いない。

 それでも多くは語らず「世界で戦える地力をつけないといけない」と繰り返した。「メダル」を取ることに執着し、悩んだ末の結論だった。

 平昌五輪の出発前。「勝負してきますね」とメッセージが届いた。集大成を懸ける「勝負」、そして4年前にけがで不完全燃焼に終わった「勝負」をするという思いが込められていた。

 迎えた本番。スピードで劣る日本選手は先行策で粘る作戦を取りがちだ。しかし、オールラウンダーを理想に掲げてきた坂爪は、勝つために勇気を持って後ろからレースを進めることもいとわなかった。

 前で競り合った選手の転倒で順位を上げる場面もあった。幸運に映るが「選手の顔触れを考えて、そういうことが起きることも想定して滑っていた」という。

 メダルには届かなかったが、あらためてショートの醍醐味を感じさせてくれた。

 4年前、坂爪と「日本人のメダル」について語った話には続きの言葉がある。「カズのような選手がメダルを取れないとしたら日本はまずいと思うんですよね」

 カズとは、平昌五輪でショート日本勢史上最年少の代表となった18歳の吉永一貴(中京大)。韓国でも一緒に武者修行し、「努力だけではできない才能を持っている」と認めるホープだ。

 北京五輪に向けた4年間が始まった。再興を目指す日本ショート界で、坂爪が残した足跡、思いが生かされてほしい。心からそう願っている。

渡辺 匡(わたなべ・ただし)プロフィル

2002年共同通信入社。和歌山支局、大阪社会部などを経て11年から本社運動部。ラグビー、スポーツ庁などを担当。東京都出身。

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