【千代田鋼鉄工業 創業70周年を迎えて】〈創業までの軌跡〉原点は小樽市の海産物商 創業者、坂田正雄氏が亜鉛鉄板の将来性に着目

 千代田鋼鉄工業の原点は、現社長の曽祖父にあたる坂田米蔵氏が明治後期から北海道小樽市で営んでいた海産物問屋の「坂田商店」に遡る。

 米蔵氏は京都府塩江村(現・京丹後市)生まれ。大阪、神戸で商売の修行を積み、明治39年、21歳で単身北海道に渡った。小樽の海産物商の娘と結婚し、暖簾分けの形で「坂田商店」を興した。鰊カス(肥料)・海産物で財を築き、小樽運河に倉庫を所有。全盛期には広大な水田や金山を所有するほどの成功をおさめていた。

 千代田鋼鉄工業の創業者、坂田正雄氏は米蔵氏の男四兄弟の三男として大正4年に小樽で生まれた。中学卒業後、単身上京。東京高等工学校(現・芝浦工業大学)機械科に進学した。上京の際、母親から「これからは家業の海産物商では身を立てられなくなる。東京で一人で頑張りなさい」と言われ、故郷には帰らない覚悟を決めたという。

 卒業後は久保田鉄工(現・クボタ)に就職し、技術者として隅田川工場で鋳物の製造に携わった。終戦直後の昭和20年10月、正雄氏が中心となって兄弟とともに、閉鎖していた坂田商店を「坂田商会」として小樽市で再開。久保田鉄工の特約店となり、東京から諸物資を送って北海道で販売した。

 扱った物資は多岐に渡るが、とりわけ寒さの厳しい北海道ではストーブに使う亜鉛鉄板が不足していたため、飛ぶように売れた。

 昭和22年12月には事務所を東京都中央区日本橋江戸橋1―4(現・日本橋1丁目)に構え、本拠地を小樽市から移転。本格的に八丁堀で亜鉛鉄板などの資材を仕入れ、北海道に送る商売を確立していった。

 終戦から2年余りで300万円(現在の1億円強)もの資金を得た正雄氏は、将来有望な事業として自ら亜鉛鉄板の生産を始めることを決意。昭和23年、葛飾区堀切町の空き工場を購入し、小規模なめっき工場「千代田工業所」を設立した。

 試行錯誤でめっき技術を確立した後、本格生産を始めるため、足立区五兵衛町(現・綾瀬)の福島鑢(やすり)製造所の工場一部を購入し、本格的なめっき工場を建設。昭和24年6月に「千代田亜鉛工業株式会社」として法人化した。

社名の〝千代田〟、由来は縁起の良い〝橋〟

 昭和23年、千代田工業所を設立した当時、本社事務所があったのが東京・日本橋。その事務所近くに架かっていた「千代田橋」から社名をとった。千代田橋が戦争でも落ちなかった縁起の良い橋とされたことなどから、当時の名づけ人に「千代田」を薦められたことが由来とされる。

 千代田橋は永代通りの日本橋と兜町の間に今もその姿をとどめている=写真。橋の上を首都高速道路が通り、川も見えないが、石造りの立派な欄干がかつての姿をほうふつとさせる。

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